長寛2年(1164年)8月26日に保元の乱に敗れ、讃岐に島流しとなった崇徳上皇が亡くなりました。
その崇徳上皇の御霊が再び京都に戻ってきて京都市上京区の白峯神宮に祀られたのは、それから約700年も経った慶応4年(1868年)のことでした。
なぜ、こんなに時が過ぎてから崇徳上皇の御霊が京都に戻ってきたのでしょうか。
天皇家を呪いながら亡くなった崇徳上皇
崇徳上皇の人生は、とても不幸なものでした。
父の鳥羽上皇に疎まれ、天皇に即位した後、すぐに退位させられたり、保元の乱では、後白河天皇と対立して負けた後、讃岐に島流しとなったり、悲惨なことばかり。
配流先の讃岐から後白河天皇に謝罪をし、京都に戻りたいと訴えますが、聞き入れられず、彼の地で亡くなりました。
崇徳上皇は天皇家を恨み、「自分は大魔王となって、王を下民に落として、下民を王にしてやる」といって憤死したと伝えられています。
その言葉のとおり、日本では崇徳上皇が亡くなってから約100年おきに災いが起こります。
13世紀中期には元寇、14世紀中期には南北朝の争乱、15世紀中期には応仁の乱。
これだけ大きな祟りをもたらしたのは、日本史上、崇徳上皇以外にはいません。
もちろん祟りなんて迷信だと現在では考えられていますが、当時の人々は祟りを信じていたので、崇徳上皇の祟りに恐怖していたことでしょう。
孝明天皇が崇徳上皇の御霊を京都に戻すことを提案
崇徳上皇の祟りについては、幕末になっても信じられていました。
その証拠に幕末の天皇であった孝明天皇は、崇徳上皇の御霊を京都に戻し鎮魂することを提案しています。
幕末と言えば、日本が外国の植民地になるかもしれないという危機感があった時代。
このような動乱の時代に突入したのは、崇徳上皇の祟りによるものだと考えたのかもしれません。
何と言っても、崇徳上皇が亡くなったちょうど700年後の元治元年(1864年)には、長州藩が京都御所に乱入するという蛤御門(はまぐりごもん)の変が起こったわけですからね。
この時、京都市街は焼け野原になって、家を失った人々が数多くいました。
100年おきに起こる崇徳上皇の祟りが、この年にやってきたと考えても無理はないでしょう。
疱瘡で急死した孝明天皇
崇徳上皇の御霊を都に戻そうと考えていた孝明天皇でしたが、慶応2年(1866年)12月に疱瘡(ほうそう)を患い、急死してしまいます。
昔から疫病にかかって亡くなるというのは祟りのせいだと信じられていたので、この時も、おそらく天皇の周囲では祟りだと噂されていたのではないでしょうか。
孝明天皇が崩御された後、慶応3年1月に明治天皇が践祚(せんそ)しました。
践祚とは、皇位を受け継ぐことで、この後、即位式を経て、正式に天皇となります。
その即位式が行われたのは、践祚から1年7ヶ月も経った慶応4年8月27日でした。
なぜ、こんなに践祚から即位まで期間が空いたのでしょうか。
実は、明治天皇は、孝明天皇の遺志を継ぎ、讃岐から崇徳上皇の御霊を京都に戻し鎮魂するまで、即位を待ったのです。
明治天皇から讃岐に勅使が派遣されたのは、即位する前日の8月26日、つまり、崇徳上皇の命日です。
この時期は、まだ新政府軍と旧幕府軍とが激戦を繰り広げていた頃で、早く戦争を終結させたいという思いがありました。
そのためには、崇徳上皇の御霊を鎮魂する必要があると考えられました。
そして、勅使を派遣して崇徳上皇に謝罪し、京都に帰ってきてもらおうとしたのです。
その時に派遣された勅使が崇徳天皇陵の前で読み上げた宣命(せんみょう)の意訳が、井沢元彦氏の「逆説の日本史2」に記述されていますので、引用します。
明治天皇の御言葉を讃岐の白峰に眠っておられる崇徳天皇にお伝え致します。(中略)陛下の霊をお慰めしようと都の近くに清らかな新宮(神社)を建立致しました。(中略)そして、天皇と朝廷を永くお守り下さって、この頃官軍に刃向かう陸奥出羽の賊徒(奥羽列藩同盟のこと)をすみやかに鎮定し、天下が安穏になりますようお助け下さい。
この後、9月6日に崇徳上皇の御霊が京都に到着し、明治天皇が参拝します。
そして、9月8日に慶応から明治に改元されました。
こうやって見ていくと、日本が明治になって近代国家への第一歩を踏み出したのは、700年もの間、人々に祟りをもたらしていた崇徳上皇の御霊の鎮魂からだということになりますね。
これは考えていくと、なかなか奥が深いのではないでしょうか。
明治になってから日本の旧来の文化を捨てて、文明開化の名のもとに西洋文明を急速に受け入れていきました。
これまで信じられていた祟りをここできっぱりと切り捨てたことが、そういった歩みへとつながっていったように思えます。
現在の白峯神宮
下の写真に写っているのは、崇徳天皇を祭神として祀っている白峯神宮です。
境内には、「崇徳天皇欽仰之碑」と刻まれた石碑が置かれています。
白峯神宮が建つ地は、もともと蹴鞠の宗家であった飛鳥井家の邸宅があった場所です。
そのため、現在では、サッカー関係者の参拝も多く、ワールドカップやオリンピックの時期になると必勝祈願に訪れるサッカー選手やファンもいます。
崇徳天皇の御霊にもしっかりと参拝しておけば、試合でよい結果が出るかもしれませんね。
ちなみに崇徳上皇が亡くなって800年後の昭和39年(1964年)は、東京オリンピックが開催された年です。
東京オリンピックが成功に終わったことから考えると、きっと崇徳上皇の祟りは鎮まったのでしょう。
なお、白峯神宮の詳細については以下のページを参考にしてみてください。