平安時代に疫病の流行や自然災害が起こると、高貴な人の怨霊の仕業だと考えられていました。
当時の人々は、疫病や自然災害から身を守るためには、恨みを持って非業の死を遂げた人々の怨霊を鎮めれば良いと考え、祭をしたり、神社に祀ったりしました。
これを御霊信仰(ごりょうしんこう)といいます。
京都で夏に行われる祇園祭は、貞観5年(863年)に神泉苑で行われた御霊会(ごりょうえ)が起源ですし、今も京都には非業の死を遂げた人々を祀っている神社が残っています。
今回は、御霊信仰を今も伝えている京都の神社を紹介します。
祟道神社
京都市左京区にある祟道神社(すどうじんじゃ)は、桓武天皇の弟の祟道天皇を祀っています。
最寄り駅は、叡山電車の三宅八幡駅で、東に約10分歩くと到着します。
祟道天皇は、歴代の天皇にはいません。
生前は早良親王(さわらしんのう)といいました。
長岡京の造営中、何者かによってその長官であった藤原種継が矢で射られて暗殺されます。
犯人は逮捕されましたが、早良親王も暗殺事件にかかわったとして皇太子の座は取り上げられ、乙訓寺(おとくにでら)に幽閉した後、淡路に流されることになります。
しかし、早良親王は自らの無罪を主張するため乙訓寺では何も食べず、やがて餓死しました。
その後、桓武天皇の母の高野新笠(たかののにいいがさ)や皇后の藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ)が亡くなり、皇太子の安殿親王(あてしんのう)も重病に悩まされ、これは、早良親王の祟りに違いないと考えられるようになります。
そして、桓武天皇は、早良親王の祟りを鎮めるため、祟道天皇の尊号を追贈しました。
祟道神社は、その後、早良親王の御霊を祀るために貞観年間(859-878年)に創建されました。
上御霊神社
京都市上京区の上御霊神社も、その名のとおり、御霊信仰の神社で、正式には御霊神社といいます。
上御霊神社にも早良親王が祀られています。
早良親王に祟道天皇の尊号が追贈されたと同時に親王の父の光仁天皇の皇后であった井上内親王(いのえないしんのう)にも皇后の称号が追贈されます。
井上内親王は、光仁天皇を呪詛して殺そうとしたとの容疑がかけられ皇后の座を廃されます。
そして、皇太子であった他戸親王(おさべしんのう)とともに謀反(むほん)の罪を着せられ、宝亀3年(772年)に大和に幽閉され、後に2人一緒の日に亡くなっています。
光仁天皇は、桓武天皇の父でもあったことから、井上内親王と他戸親王の死に桓武天皇がかかわっていたのかもしれませんが、それを示す証拠は残されていません。
上御霊神社には、井上内親王と他戸親王も祀られているので、無実の罪を着せられ非業の死を遂げたのでしょう。
さらに桓武天皇に関わる人物では、第三皇子であった伊予親王も不可解な死を遂げています。
兄の平城天皇(へいぜいてんのう)が即位すると、伊予親王は皇太子になりましたが、藤原仲成の謀略により、母の藤原吉子(ふじわらのきっし)とともに伏見の川原寺に幽閉され、後に母子ともに服毒自殺をしています。
これにより、伊予親王も怨霊になったと伝えられています。
井上内親王、他戸親王、藤原吉子は、上御霊神社に祀られています。
他に嵯峨天皇が崩御した後に謀反の罪を着せられ伊豆に流罪となり亡くなった橘逸勢(たちばなのはやなり)、同じく謀反の罪で伊豆に流罪となった文屋宮田麻呂(みやたまろ)、藤原広嗣の乱により九州に左遷させられた吉備真備(きびのまきび)も祀られています。
下御霊神社
上御霊神社に対して中京区の下御霊神社にも、非業の死を遂げた人々が祀られています。
下御霊神社に祀られたのは、貞観5年に神泉苑で行われた御霊会で鎮魂された祟道天皇、伊予親王、藤原吉子、橘逸勢、文屋宮田麻呂、藤原広嗣の六所御霊で、後に吉備聖霊(きびのしょうりょう)と火雷天神(からいのてんじん)が加えられ八所御霊となっています。
吉備聖霊は、吉備真備との説がありますが、下御霊神社では六所御霊の和魂(にぎみたま)と解釈しています。
また、火雷天神は、菅原道真との説もありますが、下御霊神社の創建が菅原道真の時代よりも早いため、当社では六所御霊の荒魂(あらみたま)と解釈しています。
ここで、和魂は温和で優しい性格、荒魂は荒々しい性格を意味します。
北野天満宮
京都市上京区の北野天満宮は、学問の神さまの菅原道真を祀っています。
道真は、藤原時平の讒言で九州に左遷させられ、彼の地で亡くなり怨霊になったと伝えらています。
その怨霊を鎮めるために創建されたのが文子天満宮(あやこてんまんぐう)で、現在、下京区の京都駅近くにあります。
道真の死後、都では御所の清涼殿に雷が落ちたり、天変地異が起こったり、道真左遷のきっかけとなった藤原時平が若死にしたりと不吉なことが頻発しました。
これは、道真の怨霊の仕業に違いないと、当時の人々は考えるようになり、やがて文子天満宮が北野天満宮になります。
白峯神宮
日本史上最大の怨霊と言われているのが、崇徳上皇です。
崇徳上皇は、保元の乱の後に讃岐に流され、彼の地で憤死しています。
崇徳上皇は、流罪になった後、ずっと京都に戻りたいと朝廷に懇願していましたが、その願いは聞き入れられず、やがて、天皇家を呪うようになりました。
都では、火災が発生するなどの災害が頻発し、その後100年おきに京都では大きな災害が起こるようになります。
京都に戻りたいとの崇徳上皇の願いがかなえられたのは、約700年後の明治になる直前でした。
明治天皇が、慶応から明治に改元する前に香川県から崇徳上皇の神霊を京都に戻し、上京区の白峯神宮に祀ります。
700年にもわたり、人々から恐れられてきた崇徳上皇の怨霊は、こうして御霊となり鎮まりました。
現在の白峯神宮は、サッカーの神様として崇敬されており、ワールドカップなどのサッカーの大会が行われる前に必勝祈願で訪れる人が多いですね。
京都三大祭の一つである祇園祭は、怨霊を鎮めるための御霊会が始まりでした。
そして、平安時代から続く御霊信仰と関係のある神社が、今も京都には残っています。
祇園祭の観覧の際は、御霊信仰と関係のある神社にも参拝してはいかがでしょうか。