12月下旬に京都市中京区の本能寺に参拝しました。
本能寺と言えば、明智光秀が織田信長を討った本能寺の変をすぐに思い浮かべるわけですが、事件の現場は、現在の本能寺よりも西です。
とは言え、本能寺が織田信長と縁のあるお寺であることには違いなく、境内には織田信長の廟所もありますね。
本堂裏側の供養塔
本能寺の最寄り駅は、地下鉄の京都市役所前駅です。
駅を出て、寺町通のアーケード街を少し南に歩くと、本能寺の山門が現れます。
今回は、河原町通に面する門から境内に入ることに。
河原町通に面する門は、とても小さく、本能寺の入り口だと気付きにくいですから、参拝する時は寺町通から境内に入った方が迷わないで良いでしょう。
河原町通からだと、境内の東側から入ることになります。
本堂が西向きに建っているので、裏側から入るような感じですね。
本堂の裏には、石碑や供養塔がいくつも置かれています。
下の写真に写っているのは、信長公三百五十年記念碑です。
そして、上の記念碑の北側に、織田信長のお墓があります。
織田信長の墓は、北区の総見院、上京区の阿弥陀寺、東山区の大雲院にもありますが、本能寺の墓は、信長の3男の信孝が信長らの骸骨の収集作業を進め、本能寺の変から1ヶ月後に信長の墓所と定めたものです。
お墓には、信長の太刀も納められているそうです。
信長の墓の北隣には、本能寺の変で戦死した人たちの合祀墓もあります。
さらに北には、供養塔が3段に並んでいます。
近くの説明書によると、1番下の供養塔は、9代将軍徳川家重夫人のものです。
彼女は、伏見宮邦永親王の姫宮で、17歳の時に家重に嫁しましたが、2年後の早産の後に亡くなっています。
遺骸は、江戸の寛永寺に葬られましたが、遺髪と爪は、彼女が平素から信仰していた本能寺に送られ、石塔の下に納められています。
2段目の供養塔は、菅中納言局庸子(かんちゅうなごんのつぼねようこ)の供養塔です。
彼女は、霊元天皇に女官として仕えました。
妙法院門跡の堯延法親王や大覚寺門跡の性應法親王は、彼女が産んだ皇子です。
そして、1番上の石塔は、島津義久夫人の供養塔です。
島津義久は戦国時代の武将で、後に豊臣秀吉の九州遠征の際に敗れました。
義久の夫人は、元亀3年(1572年)に亡くなっています。
織田信長と明智光秀のキャラクター
本堂の裏側の石碑や石塔を見た後は、本堂にお参りです。
中に入ってお参りできますが、今回は外からお参り。
本堂の近くには、ナンテンが赤い実をたくさん付けていました。
大寶殿の前には、織田信長のキャラクター。
その隣には、明智光秀もいました。
2019年11月29日から2020年3月31日まで、「イケメン京をめぐる恋」のストーリーラリーが開催されています。
「武将たちの冬休みin京都」と題されたストーリーラリーは、ここ本能寺の他、本能寺跡、建勲神社(たけいさおじんじゃ)、嵐電嵐山駅、東映太秦映画村が対象スポットとなっています。
イケメン戦国のアプリをダウンロードし、京都ストーリーラリー特設ページから参加、対象スポットに行くと武将との特別なストーリーやアバターがもらえるそうです。
登場する武将は、他に徳川家康、上杉謙信、伊達政宗、真田幸村がいますよ。
境内の片隅にひっそりと埴輪のようなものが置かれていました。
以前からあったのでしょうか。
見たことがあるような気もしますが、今回、初めて気づいたような気もします。
帰りは、寺町通側の山門から出ることに。
「大本山本能寺」と刻まれた石柱をよく見ると、「能」の字が変わっているのがわかります。
本能寺は、何度も火災に遭っているので、右側に「ヒ」を2つ並べるのではなく、「去」に変えています。
こういったところも、本能寺の見どころにひとつですね。
なお、本能寺の詳細については以下のページを参考にしてみてください。