蹴上船溜と南禅寺船溜の高低差を乗り越えるために活躍したインクライン

千年以上に渡り都が置かれた京都は、街の発展にともない経済的に重要な都市となっていきました。

経済発展した都市では、人や物の行き来が盛んになるもの。

しかし、京都は海に面しておらず、しかも、盆地であることから流通に難を抱え、他の都市との競争で遅れを取ってしまうとの危機感が持たれていました。

その解消のために利用が計画されたのが、隣県滋賀の琵琶湖。

江戸時代には、琵琶湖から京都に運河を造り、舟運で物資を輸送する案が何度も浮上しましたが、当時の土木技術では画餅に過ぎず実行に移されることはありませんでした。

明治維新による衰退が運河建設を計画させる

琵琶湖から京都に運河を建設することになったのは、明治18年(1885年)のこと。

文明開化が、その実現を後押ししたと思うでしょうが、そうではありません。

明治維新で、都が東京に遷ったことで京都の経済は衰退。

このままではダメだと、いくつかの経済政策が行われるも、かつての都が寂れていくのをどうすることもできません。

そんな中で、明治14年に京都府知事になったのが北垣国道(きたがきくにみち)。

彼は鴨川東岸の一体開発を進め、その中心的事業に琵琶湖疏水を位置づけ、衰退する京都のV字回復を狙います。

さすがに明治になると、琵琶湖から京都まで運河を引くだけの土木技術は発展しており問題ではありませんでした。

ただ、財政的には厳しく、工費の2割を京都市民の賦課金でまかなうことまで行われました。

36メートルの高低差を乗り越える動力が必要

順調に琵琶湖疏水の工事が進んでいきますが、東山区、左京区、山科区の境目の蹴上(けあげ)付近に難問を抱えていました。

この辺りは36メートルの高低差があり、舟が自力で進むことはできません。

そこで、蹴上船溜から南禅寺船溜の約600メートルの区間に全長582メートルのインクライン(傾斜鉄道)を敷くことが計画されます。

蹴上船溜

蹴上船溜

蹴上まで遡上してきた舟は、レール上の台車にそのまま載せられ、ケーブルカーのように南禅寺船溜まで運ばれるという仕組み。

南禅寺船溜

南禅寺船溜

しかし、舟を台車に乗せてレールを走らせるのをいったい誰がやるのか。

果たして人力でそんなことができるのか。

インクライン

インクライン

その難問を解決すべく、田辺朔郎(たなべさくろう)が渡米。

彼は、工部大学校(現在の東京大学工学部)を卒業したばかりで琵琶湖疏水建設を任され、インクラインを使って舟を運ぶ方法を考えた人物。

アメリカに渡った田辺は、コロラド州に開業した世界初の水力発電所を見学し、インクラインの動力にこれを利用することを思いつきます。

帰国した田辺は、水力発電所建設を琵琶湖疏水事業に組み込み、明治24年に蹴上発電所を完成させました。

こうして、水力発電で動力を確保したインクラインは、電力により荷物を積載したまま舟をレールに載せ、蹴上の難所を乗り越えられるようになったのです。

現在もインクライン上には、高瀬川の一ノ船入に浮かぶ高瀬舟と同じような舟が置かれています。

舟

また、琵琶湖疏水の設計と蹴上発電所の建設に携わった田辺朔郎の像も、インクラインの頂上付近に立ち、その視線は京都市中心部に向けられています。

田辺朔郎の像

田辺朔郎の像

琵琶湖疏水は、南禅寺船溜から西に向かい、途中で鴨川と並行するように南下して伏見区まで流れていますが、分線は南禅寺の境内を通って京都市の北側に進み灌漑用水に利用されてきました。

その分線を流す水路閣は、現在も南禅寺の境内に建っており、令和7年(2025年)に国宝に指定されています。

南禅寺の水路閣

南禅寺の水路閣

もしも、江戸時代に琵琶湖疏水を建設する土木技術が我が国にあれば、明治になってからも、京都は首都であり続けたのでしょうか。

そうであれば、現在の京都は高層ビルが建ち並ぶ都市となり、街のあちこちに寺社が見られる景色は消滅していたかもしれませんね。

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