1338年から1573年まで続いた室町幕府。
14世紀後半の南北朝の争乱や1467年の応仁の乱から始まった戦国時代など、室町幕府は政治的には不安定な政権だったと言えます。
しかし、室町時代は、文化的には北山文化や東山文化などが花開いた時代でもありました。
特に歴代の足利将軍が建立した寺院は文化的に優れたものが多く、天龍寺、金閣寺、銀閣寺に関しては世界文化遺産に登録されるなど、高い評価を受けています。
そこで、今回の記事では、上記3つの寺院と創建した足利将軍について紹介したいと思います。
天龍寺と足利尊氏
天龍寺は、暦応2年(1339年)に室町幕府初代将軍の足利尊氏が創建しました。
創建の目的は、後醍醐天皇の菩提を弔うためです。
尊氏は、北朝を擁立して南朝の後醍醐天皇と対立していたので、両者は敵対関係にありました。
なのに尊氏は敵の後醍醐天皇の菩提を弔うために天龍寺を創建したのです。
なぜなのでしょうか?
その理由は、一言でいうと尊氏が後醍醐天皇を尊敬していたからです。
尊氏という名も後醍醐天皇の諱(いみな)の「尊治」から一字を賜ったもので、以前は高氏と名乗っていました。
天龍寺の造営は、南北朝の争乱の最中だったので、その費用を賄うのは大変なことでした。
そこで、尊氏は天龍寺造営費用を元との貿易によって調達することにします。
この時、元との貿易に使われた船は天龍寺船と呼ばれました。
天龍寺造営は、戦乱で苦しんでいた庶民が職を得るのにも役立ち、景気回復にもつながりました。
この好景気は、天龍寺景気と呼ばれています。
足利尊氏の天龍寺創建は、文化の発展と景気回復に貢献したと言えますね。
金閣寺と足利義満
京都で最もきらびやかなお寺と言えば金閣寺ですよね。
金閣寺は、3代将軍の足利義満が応永4年(1397年)に造営した北山殿を義満没後に寺院に改めたものです。
金閣寺は、初層が寝殿造、2層目が武家造、3層目が禅宗仏殿造になっています。
寝殿造は公家を意味し、武家造は武士を意味していると言われており、武家造の2層目が寝殿造の初層よりも上にあるのは、武士が朝廷よりも上だということを意図したものだとされています。
義満が自らの権力を誇示した建物が金閣寺だったと言えそうですね。
銀閣寺と足利義政
銀閣寺は、8代将軍足利義政が文明14年(1482年)に造営を開始した東山殿を義政の没後に寺院に改めたものです。
義政は、応仁の乱を引き起こした将軍として有名ですよね。
お世辞にも政治の才能があったと言うことはできません。
そんな政治的に無能だった義政も文化に関しては才能があったようですね。
銀閣寺が世界遺産に登録されたことからもその才能を窺うことができます。
ただ、銀閣寺造営に際しては、室町幕府の財政を圧迫するほどの費用を投じたようです。
彼の家臣や当時の民衆にとっては、銀閣寺の造営や足利義政の存在は非常に迷惑だったでしょうね。
なお、金閣寺と銀閣寺については、以下の過去記事で共通点と相違点をまとめていますので、ご覧になってみてください。