織田信長が内裏修復に利用した貸付米

現在の京都御所は、幕末に再建されたものです。

その形式は、天明の大火(1788年)の後に再建された時のものを踏襲しています。

かつて京都は政治の中心だったため、多くの戦乱を経験しています。

そして、京都御所も、戦乱に巻き込まれ何度も荒廃しています。

でも、時の権力者によって、京都御所は修復や再建が行われ、現在も存続しています。

織田信長もまた、荒廃していた京都御所の修復に尽力した政治家の一人です。

10年以上かけて内裏を修復

織田信長が足利義昭を奉じて上洛したのは、永禄11年(1568年)でした。

信長の上洛は、室町幕府の再興を名目としていましたが、内裏の修理もまた上洛の大義名分でした。

都は応仁の乱(1467年)以降荒れ果て、朝廷も財政難に悩まされ、天皇の即位礼すら満足に行えないほど逼迫していました。

内裏も民家と変わらないほどみすぼらしくなっていたのを知った信長は、誠仁親王(さねひとしんのう)の元服費用として300貫文を献上した他、黄金3枚も寄付し、さらに内裏の修理に取りかかりました。

信長の内裏修復は、上洛した翌年の永禄12年から開始されます。

永禄13年4月には、紫宸殿や清涼殿の屋根の葺き替えが終わり、その後も10年以上修復工事は続けられました。

清涼殿

清涼殿

信長の父である信秀も、朝廷に4,000貫文を献上しており、勤王の志が篤かったと言われています。

おそらく、信長も信秀の影響を受けており、上洛して内裏の修復を行う計画を立てたのでしょう。

しかし、内裏の修復には、莫大な費用がかかります。

勤王の志が篤いだけでは内裏の修復は無理です。

現実的な問題として、修復のための資金を集めなければどうすることもできません。

貸付米で費用を捻出

信長が、内裏修復のための資金を集めるのに利用したのは貸付米でした。

日本実業出版社の「京都の歴史がわかる事典」によれば、信長は、洛中周辺の村々に田畠1反あたり米1升を徴収する命令を出し、この徴収した米の一部を貸付て利息を取り、内裏修復の資金としたとのこと。

信長は、上京八四町、下京四三町に対して各町に米5石ずつを貸出し、月ごとに3割の利息を徴収しました。

この貸付米は、徴収した米ですから、信長が出したものではありません。

そして、受け取った利息は貸付米に対するものですから、内裏修復費用に信長の懐が痛むことはありませんでした。

しかも、貸付米は、惣町と呼ばれる仕組みを利用して行われたので、手間もかかっていません。

当時の洛中の町は、町同士が集まって町組を作り、町組は上京と下京の2つの惣町に組織されていました。

町では月行司(がちぎょうじ)と呼ばれる代表者が町組へ集まり、各町組の代表者は惣町に寄り合う仕組みとなっており、町衆たちは生活全般の様々な問題は町で処理し、町で処理できない問題は町組へ、町組でも処理できない問題は惣町で対処していました。

この惣町の仕組みを信長は有効に利用します。

米を各町に貸し付けていたのでは手間がかかります。

でも、上京と下京の2つの惣町にまとめて米を貸し付ければ、その下の各町にも貸付米が分配されていきます。

信長は、2つの惣町を支配することで、町衆たちへの命令を容易に実行することができたのです。

貸付米制度は、楽市楽座といった経済政策を実行した信長だから思いついた政策と言えそうです。

信長が利用した惣町の仕組みは、その後、豊臣秀吉や徳川家康にも利用され、江戸幕府の命令も、惣町から町組へ、町組から町へと伝達されるようになりました。

惣町を利用した貸付米制度を信長が思いつかなければ、内裏の復興はもっと後になっていたかもしれませんね。

なお、京都御所の詳細については以下のページを参考にしてみてください。

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