京都市右京区の嵯峨に小倉山を背にして建つ二尊院は、春の桜や秋の紅葉が美しいお寺で、多くの観光客が訪れます。
その二尊院境内の小倉山中腹に法然上人廟が建っており、その中に空公行状碑という石碑が置かれています。
いったい、この空公行状碑は、どういったものなのでしょうか。
北宋の梁成覚作の空公行状碑
二尊院は、JR嵯峨嵐山駅から西に15分ほど歩いた辺りに建っています。
入り口の総門近くに拝観受付があるので、ここで500円を納め参道に進みます。
参道は、紅葉の馬場と呼ばれるように左右に多くのカエデが植えられています。
紅葉の馬場を過ぎ、唐門をくぐると正面に本堂が建っています。
二尊院は、慈覚大師円仁が承和年間(838-847年)に開山したと伝えられています。
本堂には、発遣(ほっけん)の釈迦と呼ばれる釈迦如来と来迎の弥陀と呼ばれる阿弥陀如来の二尊が祀られています。
ゆえに二尊院と呼ばれているんですね。
釈迦如来は、人が誕生し人生の旅路に出発する時に送り出してくれます。
一方の阿弥陀如来は、その人が寿命をまっとうした時に極楽浄土より迎えてくれます。
この思想は、中国の唐の時代の善導大師が広め、日本では浄土宗の開祖である法然上人に受け継がれました。
その法然上人の廟所と伝わる建物が、本堂の裏の小倉山の中腹に建っています。
この法然上人廟の中を見ると、大きな空公行状碑が置かれているのがわかります。
空公行状碑を作ったのは、梁成覚(りょうせいかく)という人です。
梁成覚は、中国の北宋から日本にやって来た渡来人です。
渡来人と聞くと、平安時代以前に日本にやって来た人々を連想しますが、鎌倉時代以降も大陸からやってくる人々はいました。
菅原道真が遣唐使を廃止したことで、大陸との交際が無くなったように思われがちですが、平安時代末期には平清盛が宋と貿易をしていますし、室町時代も足利義満が明と貿易をしています。
国と国との通交はなくなっても、民間では様々な交流が行われていたわけですね。
梁成覚もまた、日本に文化を伝えた中世の渡来人のひとりです。
以前に紹介した書籍の「京都知られざる歴史探検」の下巻によると、空公行状碑の上部の「空公行状」の文字は正方形の区画の中に刻まれており中国風ですが、端正な蓮花座で飾られた台部などは日本化の様相を示しているとのこと。
空公行状碑の「空公」は、鎌倉時代に二尊院の諸堂を整備するのに尽力した湛空(たんくう)上人のことです。
先ほど、空公行状碑が置かれている建物は、法然上人廟と紹介しましたが、どうやら湛空上人廟のようです。
廟所の近くに法然上人廟と書かれた立札がありますが、二尊院の拝観案内には湛空上人廟と記されています。
いつの頃からか、「空公」が法然上人と誤って伝えられるようになったんですね。
空公行状碑には、300文字以上に渡って湛空上人の行状が記されているようですが、ほとんど読むことができませんでした。
でも、鎌倉時代に日本と宋との交流があったことを示す貴重な石碑であることは伝わってきましたよ。
なお、二尊院の詳細については以下のページを参考にしてみてください。