京都市東山区の正面通に耳塚があります。
耳塚は、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、日本の兵が朝鮮や明国の兵たちの耳や鼻を削いで日本に送った際に埋葬した塚です。
その耳塚の東隣には公園があります。
公園の片隅には、2つの石碑が置かれており、どちらも、ここが明治天皇御小休所(めいじてんのうごこやすみどころ)と下京第二十七区小学校があった場所だと伝えています。
伊勢神宮参拝後に入京
下の写真に写っているのが、「明治天皇御小休所下京第二十七区小学校阯」の石碑です。
右側の石碑は、昭和16年(1941年)に京都府が建立したものです。
一方の左側の石碑は、同年に貞教学区有志が建立したもので、「明治天皇御小休所下京第二十七区小学校趾」と刻まれています。
明治天皇は、明治5年(1872年)5月23日に品川から軍艦で三重県久志本村に上陸した後、伊勢神宮に参拝しました。
明治2年にも、明治天皇は伊勢神宮に参拝していますが、これは歴代天皇で初めての伊勢神宮参拝だということです。
明治5年の伊勢神宮参拝後、5月30日に明治天皇は大阪を経て伏見に入りました。
その際、伏見の旧本陣、藤森神社(ふじのもりじんじゃ)、そして、第二十七区小学校(貞教校)で休憩し、京都御所に入りました。
この時、明治天皇に付き従ったのは、参議の西郷隆盛、隆盛の弟で陸軍少輔の西郷従道、海軍少輔の川村純義などでした。
その後、明治天皇は、中国、九州、四国を巡り、7月10日に神戸を発し12日に横浜に到着し、還御されました。
明治天皇が休息された下京第二十七区小学校は、明治10年に豊国神社の造営にあたり、現在地の上堀詰町に移されています。
現在も、豊国神社は、同石碑が立つ公園の東側にあります。
明治10年は、西郷隆盛が西南戦争を起こした年です。
5年前には、明治天皇に付き従って京都を訪れた西郷隆盛が、国家に反抗するとはだれも思わなかったのではないでしょうか。
西郷隆盛の反乱と下京第二十七区小学校の移転には、何か因縁めいたものを感じますね。
京都市内には、明治天皇と関係のある場所に石碑が設置されています。
何気なく歩道を歩いていると見つけることがありますね。
明治天皇は、京都から東京に都を遷した天皇ですから、京都とはあまり縁がなさそうに思えるのですが、京都市内の明治天皇の石碑の多さを考えると、京都との関係も非常に深かったことがうかがえます。