2月中旬。
京都市中京区の木屋町三条に建つ瑞泉寺に参拝しました。
瑞泉寺は、観光客や旅行者の方には、あまりなじみのないお寺ですが、歴史的には豊臣秀次一族が処刑された地として知られています。
豊臣秀次は、豊臣秀吉の命により高野山で切腹させられていますが、秀次の一族39人は、この地で処刑されています。
豊臣秀次の墓と駒姫の塔
瑞泉寺の最寄り駅は、京阪電車の三条駅、もしくは地下鉄の三条京阪駅です。
どちらの駅からも、徒歩約5分です。
駅から三条大橋を西に渡り、木屋町通を南に曲がると、牛丼屋さんの隣に瑞泉寺の山門が建っています。
山門の前には、豊臣秀次公一族終焉之地と刻まれた石柱が立ち、当寺が豊臣秀次と関係のあることが示されています。
瑞泉寺の境内に入ると、右奥に本堂が建っています。
それでは本堂にお参りをしましょう。
豊臣秀吉には、後継ぎがいなかったことから甥の秀次を養子として関白の位を譲ります。
しかし、秀次は、秀吉の期待になかなか応えられません。
そんな状況で、秀吉の側室淀殿が秀頼を生んだことから、秀次は秀吉から次第に疎んじられていきます。
秀次は素行が悪く、何の罪もない人々を殺したと伝えられていますが、どうなのでしょうか。
後に秀次は謀反の疑いをかけられ、文禄4年(1595年)7月に秀吉によって高野山に追放され、同月15日に切腹させられました。
本堂の正面には、豊臣秀次のお墓があります。
上の写真の中央に写っているのが秀次の墓石です。
その左右にも塔がありますが、右側は駒姫の塔と記されていました。
秀吉は、秀次を切腹させた後、秀次の子供や側室など一族39人を同年8月2日に三条河原で処刑しました。
処刑された人々の遺体は、近くに掘られた大きな穴に投げ込まれ、そこに殺生塚と呼ばれる大きな塚が築かれます。
この殺生塚は、洛中洛外図屏風にも描かれており、悪逆塚や畜生塚とも呼ばれました。
処刑された秀次一族は、謀反とは関係なく、罪もない子供や女性ばかりでした。
それでも、後々復讐されないように一族を根絶やしにするのが戦国のならい。
処刑された中には、最上義光(もがみよしあき)の娘の駒姫も含まれていました。
最上義光は、奥州で伊達政宗と覇権を争っていた戦国武将です。
駒姫は、文禄4年の夏に秀次の側室になるため京都の聚楽第に入ったのですが、その直後に秀次事件が起こりました。
彼女は、この事件に全く関与しておらず、それどころか秀次の側室と呼べるかどうかも分からない身でした。
もしも、駒姫の上洛が数ヶ月遅ければ処刑されずに済んだのではないでしょうか。
2019年3月21日追記
上の写真に写っている石塔は駒姫の塔ではありませんでした。
下の写真に写っているのが駒姫の塔です。
角倉了以が建立
瑞泉寺が建立されたのは、秀次一族が処刑されてから15年以上の歳月が過ぎた慶長16年(1611年)です。
この頃、豊臣秀吉の十三回忌を前に大仏殿方広寺の再建が決まり、豪商角倉了以(すみのくらりょうい)は、その建築資材の運搬のために高瀬川を開削することを許可されました。
彼は、高瀬川の工事中に殺生塚が荒廃しているのを嘆き、その跡地にお堂を建立し、秀次一族の菩提を弔いました。
これが瑞泉寺の始まりです。
豊臣秀次のお墓の北側には、引導地蔵尊を祀るお堂が建っています。
秀次一族の処刑の際、大雲院の貞安上人が木像を運び込み、処刑され続ける子女たちに引導を授け続けたと伝えられています。
このお堂に祀られているのは、その時の地蔵菩薩像だそうです。
本堂の前にある宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、宝篋印陀羅尼(ほうきょういんだらに)を奉祀しており、塔身に刻まれた経文の最後には以下のように記されています。
伏して祈る!願わくば此の塔の功徳を以って、この世の全ての人々が苦しみから平等に救われますように―
秀次一族の供養のために建てられたものではないかと言われています。
山門の近くには、豊臣秀次関係の資料が展示されています。
資料室の前に植えられている梅は、まだつぼみの状態。
見ごろを迎えるのは3月に入ってからでしょうか。
山門前では椿が赤い花を咲かせていましたよ。
現在は、木屋町や河原町は道路となっていますが、かつてはこの辺りまで鴨川が流れていました。
豊臣秀次一族が処刑された当時も、木屋町あたりを鴨川が流れており、その中洲が処刑場となりました。
今、瑞泉寺が建っている場所が、ちょうど秀次一族の終焉の地だったのです。
なお、瑞泉寺の詳細については以下のページを参考にしてみてください。