天正10年(1582年)に起こった本能寺の変で織田信長がこの世を去りました。
信長を討ち取ったのは家臣の明智光秀でしたが、その光秀もすぐに羽柴秀吉との戦いに敗れ戦死しています。
信長の死により織田政権を誰が引き継ぐのか、家臣団の中で争いが起こります。
有力だったのは羽柴秀吉と柴田勝家でしたが、秀吉が勝家を打ち取ったことで自然と秀吉が後継者となりつつありました。
しかし、これに不服だったのが、信長の子の信雄(のぶかつ)。
彼は徳川家康を味方に着けて、秀吉と決戦することにしました。
これが、天正12年に起こった小牧長久手の戦いです。
秀吉に味方した池田恒興
羽柴秀吉と織田信雄との戦いで、どちらに味方すべきか迷っていた武将がいました。
それは、池田恒興(いけだつねおき)です。
恒興の母は、織田信長の乳母でした。
なので、恒興は信雄に背くのをためらっていたのですが、信雄があまりに頼りなかったことからどうすべきか迷っていました。
そんな時、秀吉から戦いに勝利した後は三河、尾張、美濃の3ヶ国を与えるという条件で味方するようにと頼まれます。
頼りない信雄に味方して戦いに負ければ、池田家が滅亡してしまいます。
秀吉から出された条件が恒興にとって魅力的だったこともあり、彼は頼りない信雄ではなく秀吉に味方することを決意しました。
犬山城奪取に成功
小牧長久手の戦いの初戦で、池田恒興は犬山城を奪取する手柄をたてます。
しかし、徳川家康の反撃を警戒して、いったん犬山城から退却しました。
これに婿の森長可(もりながよし)が反対し徳川勢に攻め入ります。
ところが、森長可は、徳川勢の挟み撃ちにあい退却することになりました。
いったん秀吉の陣に退却した池田恒興は、岡崎を目指し徳川の陣深く入り込んで敵をかく乱してみせると言いだしました。
秀吉は恒興の案を採用し、森長可、堀秀政、甥の秀次の兵を合わせた2万の軍勢で攻め入るように命じます。
永井直勝に打ち取られる
池田恒興の軍勢は、徳川の陣深くに攻め入ろうとしましたが、堀秀政と羽柴秀次の軍勢が徳川勢に退けられてしまいました。
そして、堀秀政と羽柴秀次は作戦が失敗したと判断し帰還。
戦場には、池田恒興と森長可が取り残されました。
森長可は、徳川勢が放った鉄砲の弾丸が命中し、落馬したところを討ち取られました。
それでも、池田恒興は槍を振るって敵陣へと突撃します。
しかし、味方の兵の多くは負け戦を悟って逃げ出し、形勢は池田恒興にとって不利となります。
そして、恒興は徳川の家臣永井直勝に打ち取られました。
永井直勝は、この時の功績もあり5千石の知行を得ることができました。
後に秀吉によって天下統一が果たされた後、池田恒興の子の輝政が、永井直勝と対面しています。
その時、輝政は直勝の知行が5千石だと聞かされると、父の首級がたった5千石の評価しかなかったことに落胆したと伝えられています。
永井直勝は、小牧長久手の戦いで討ち取った池田恒興の供養をしたいと思っていましたが、生前には叶えられませんでした。
その直勝の願いは子の尚政によって叶えられます。
永井尚政は、慶安元年(1648年)に万安英種(ばんあんえいしゅ/ばんなんえいじゅ)を請じて、応仁の乱によって荒廃してた伏見の興聖寺を宇治に再興し、池田恒興の菩提を弔いました。
興聖寺は、伏見城の遺構を用いて再興されています。
天井には、関ヶ原の戦いの前に東軍の鳥居元忠が伏見城で自決した時の床が使用されており、血天井と言われています。
なお、興聖寺の詳細については以下のページを参考にしてみてください。