聚楽第(じゅらくだい/じゅらくてい)は、豊臣秀吉が京都の住いとして造営した建物です。
秀吉は、関白に就任した翌年の天正14年(1586年)から聚楽第の造営に着手します。
天正11年から大坂城の築城も始まっていたので、秀吉は一度に2ヶ所の大工事を実施したんですね。
大坂城よりも動員した人員が多かった聚楽第の造営
大坂城の築城に際しては、7万人から8万人の人夫が徴発されたと言われています。
これだけでもすごい人数で、当時の秀吉の権勢をうかがうことができます。
さらに驚くのは、聚楽第が大坂築城よりも多くの人夫を挑発して造営されたということです。
少なく見積もっても、聚楽第と大坂城の造営に15万人の人夫が関わったことになります。
聚楽第は、二条城よりも広大だったそうです。
それにもかかわらず、完成までにかかった日数はわずか6ヶ月だったと伝えられています。
金色の装飾
派手好きで知られる秀吉は、聚楽第の内外、上下いたるところに金を塗ったそうです。
秀吉は、全てに金を貼った黄金の茶室を作りましたが、それは聚楽第の比ではありませんね。
さらに秀吉は、聚楽第を政権の象徴とするために天正16年に後陽成天皇の行幸を受けます。
行幸には6千人の警備がつき、行幸の列の先頭が聚楽第に到着した時、まだ後尾は内裏を出ていなかったと言われています。
聚楽第では当初の3日の予定を延長して、酒宴、管弦、和歌などが催されました。
そして、秀吉は、この宴で内裏へ銀5万両を献上し、仙洞御所へは地子米3百石、智仁親王へ5百石、諸門跡や公卿たちには8千石を分配しました。
1石は、1年間に人が食べる米の量を表すので、合計8,800石の米は相当な量ですね。
秀吉自ら破却
これだけ豪華で、多くの賓客を盛大に招待した聚楽第でしたが、後に秀吉自ら破却することになります。
秀吉から関白職を譲られた甥の秀次が、聚楽第に住むことになったのですが、秀吉に秀頼が誕生したことが理由で、彼はうとまれ始めます。
そして、文禄4年(1595年)に秀次は高野山に追放され、自害しました。
その後、秀吉は秀次が住んでいた聚楽第を破却したため、現在、京都に聚楽第は残っていません。
ただ、聚楽第の遺構と伝わっている建物が、少ないながらも残っています。
下京区の西本願寺境内に建つ飛雲閣が、そのひとつです。
普段、見ることはできないのですが、たまに飛雲閣の一般公開が催されることがあるので、その機会に西本願寺に参拝すると拝観できます。
また、北区の大徳寺境内にある唐門も聚楽第の遺構と伝わっています。
大徳寺の唐門も、普段は公開されていませんが、一般公開が行われることがありますので、興味がある方はその時に参拝すると良いでしょう。
数万人を動員して造営した聚楽第を簡単に破却してしまった豊臣秀吉。
彼の権力と財力からすると、それくらいは何の痛みもないことだったのでしょうか。
庶民からすると、もったいないとしか思えないのですが。