元弘3年(1333年)5月に六波羅探題が滅亡しました。
隠岐の島から脱出し船上山(せんじょうせん)にあった後醍醐天皇は、この知らせを聞いて、5月23日に京都へ向けて出発します。
後醍醐天皇は、名和長年、塩谷高貞(えんやたかさだ)、朝山太郎らに警護され、5月26日に播磨の千本宿に到着、翌27日には書写山に行幸しました。
赤松円心と楠木正成の功績をたたえる
5月28日には、兵庫の福厳寺(ふくごんじ)で赤松円心が合流。
赤松円心は、山崎から何度も六波羅探題を攻撃し、その滅亡に大きく貢献したことから、後醍醐天皇は「天下草創之功」をたたえたとされます。
さらにこの滞在中に鎌倉から新田義貞の使者が到着し、幕府を攻め滅ぼしたことが伝えられました。
後醍醐天皇の宿願であった討幕が実現したことを知った近臣から雑兵にいたるまでが、大いに喜び、うれし泣きする者も中にはいました。
さらに6月2日には、千早城で六波羅軍と戦っていた楠木正成も到着。
六波羅探題が滅亡したことを知った千早城攻囲軍が一斉にひき始めたことで、楠木正成の半年もの長きにわたる籠城戦が終結したのです。
六波羅探題の滅亡には、楠木正成の功績がとても大きく、それを理解していた後醍醐天皇は、「賊徒壊滅の功」をたたえ、これを聞いた正成は大いに感激したそうです。
京都に還幸
後醍醐天皇の還幸の行列が京都に入ったのは、6月4日でした。
この日は、いったん東寺に宿泊することとなり、六波羅探題滅亡後に六波羅奉行として京都の治安にあたっていた足利高氏も後醍醐天皇の出迎えにきました。
後醍醐天皇は、都の治安を守っていた足利高氏の仕事ぶりを評価し、二条富小路の御所に還幸する際の警護の役目を命じました。
そして、6月5日。
後醍醐天皇は、再び二条富小路の御所に戻ることができました。
この時、元弘の変から2年近くが経っていました。
東寺の御影堂の西側に植えられていた見返りの松
後醍醐天皇が京都に戻って最初に宿泊した東寺は、5月7日に後醍醐天皇から「一天泰平之大業」の成就のために祈祷するようにという綸旨(りんじ)を受けていました。
神仏に対する崇敬の念が強いこの時代では、東寺は、討幕の影の功労者と考えられたことでしょう。
後醍醐天皇が東寺に到着した時、東寺長者の頼意(らいい)が出迎えました。
後醍醐天皇が御影堂(みえいどう)の西側にある松の木について訊ね、その説明を頼意がしていたところ、心地良い松風が吹いてきたことから、頼意は、以下の歌を詠んだと伝えられています。
うへをきし 昔やかねて契りけむ けふの御幸を松風の聲(こえ)
三浦俊良氏の「東寺の謎」によると、頼意は、松にかけて、後醍醐天皇のお越しを待ち望んでいたということを詠み込んだそうです。
このことから、この松は「見返りの松」と呼ばれるようになったとか。
ということで、東寺の御影堂に今もその松があるのかどうかを調べてみました。
春に訪れた時は、御影堂の西側では、桜が満開でした。
この桜の木以外に目立った木はありませんね。
上の写真の奥の方に背の低い松が植えられていますが、これが見返りの松なのでしょうか。
今も残っているのなら、樹齢700年は経っているはずですから、もっと大きな松のはずなのですが。
この松が、見返りの松なのかどうかはわかりません。
なお、東寺の詳細については以下のページを参考にしてみてください。