わずか数十騎で楠木正成討伐に向かった宇都宮公綱

元弘2年(1332年)3月に鎌倉幕府に反旗を翻した後醍醐天皇が隠岐に流されました

4月には、幕府が擁立した光厳天皇が即位したことで、一件落着と思えたのですが、ちょうどこの頃から後醍醐天皇に味方する楠木正成が動き出します。

楠木正成は半年前に赤坂城で戦死したと噂されていました。

ところが、彼は生きており、幕府の湯浅定仏(ゆあさじょうぶつ)が管理していた赤坂城を奪回したのです。

これに驚いた六波羅探題の北条仲時は、5月17日に楠木正成討伐のために隅田通治(すだまさはる)と高橋宗康に5,000の兵を持たせ、大阪の天王寺へと向かわせました。

渡辺橋の戦い

隅田と高橋の両武将に率いられた六波羅勢5,000が渡辺橋に到着した時、楠木正成の兵はわずか300ほどしかいませんでした。

たった300の楠木勢なら一気に蹴散らしてしまえと、六波羅勢は渡辺橋を渡って攻め込みます。

しかし、いったんは退いたかに見えた楠木勢でしたが、そこかしこに隠れていた伏兵が、六波羅勢を囲むように大量の矢を射返してきました。

これに驚いた六波羅勢は、渡辺橋を引き返そうとしましたが、その時には、すでに楠木勢によって橋板が外されており、六波羅勢は次々と川に落ちていき、隅田と高橋の両武将も這う這うの体で、京都へと引き返していきました。

この六波羅勢のだらしない負け方に六条河原では、以下のような落首が立てられたと伝えられています。

渡辺の 水のいかばかり 早ければ 高橋おちて 隅田流るらん

宇都宮公綱出陣

隅田と高橋が敗北したことで、北条仲時は、楠木正成をどうにかしなければならないと思い、関東一の弓取りと言われた宇都宮公綱(うつのみやきんつな)に出陣を命じました。

公綱は、今度の戦では、自分が楠木正成を討ち取るか、自分が楠木正成に討ち取られるかのどちらかしかないと決心し、7月19日に京都を発ちます。

その前に六波羅の北条仲時にあいさつをし、これより主従15騎で楠木討伐に向かうことを告げました。

わずか15騎で出陣することにさすがに驚いた北条仲時は、数百の兵に公綱の後を追わせます。

公綱が東寺に差し掛かった時には、彼の家臣たちが主君のためにと駆けつけ、70騎ほどになっていました。

東寺

東寺

それからしばらく進んだところで、六波羅から駆け付けた兵士や公綱を助けようという武将たちが合流し、兵力は500を超えるまでに増えていました。

一方、天王寺の楠木正成は、わずか数百人で攻めてくる宇都宮公綱に対して、ただならぬ決意を感じていました。

きっと、公綱は、自分と刺し違える覚悟でわずかな手勢で攻めてきたのに違いないと覚った正成は、天王寺から退却することにしました。

楠木勢が退却したことを知らない宇都宮勢は、早朝に天王寺に攻め込みました。

しかし、その時はすでに楠木勢は、退却した後。

公綱は、難なく天王寺を占拠することができました。

ところが、それから公綱の苦悩が始まります。

退却したはずの楠木勢が、夜になると天王寺を囲むようにかがり火を炊き始めたのです。

こうなると、今度は天王寺にたてこもる宇都宮勢が、楠木勢による夜襲を警戒しなければなりません。

結局、その夜は、楠木勢の夜襲はありませんでした。

しかし、2日目の夜も3日目の夜も常に楠木勢は天王寺を囲むようにかがり火を炊きます。

さすがに毎晩、敵の夜襲に備えなければならないのでは、宇都宮勢も精神的に疲れてきます。

いつ攻めてくるのかわからない楠木勢に備え続けるのは、さすがに味方にとって不利だと判断した宇都宮公綱は、7月27日の夜に天王寺から退却することを決断します。

出陣する前は決死の覚悟だった宇都宮公綱でしたが、最終的には楠木正成と一戦も交えずに京都に引き返していきました。

これなら、東寺に差し掛かった時の70騎程度の兵力でも良かったかもしれませんね。

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