元治元年(1864年)6月に起こった池田屋事件では、長州藩士を中心に多くの志士が新撰組と会津藩によって斬られたり、捕縛されたりしました。
池田屋事件は、明治維新を1年遅らせることになったといわれているように幕末史における重大事件のひとつに数えられます。
その時の殉難者たちのお墓が、京都市東山区の京都霊山護国神社(きょうとりょうぜんごこくじんじゃ)にあります。
無数の墓碑
京都霊山護国神社は、京阪電車の祇園四条駅から東に20分ほど歩いた辺りに建っています。
墓地に入るには、入場料300円が必要となっています。
池田屋事件の殉難者の墓碑は、坂本竜馬と中岡慎太郎のお墓の後ろに並んでいます。
事の発端は、木屋町四条の枡屋喜右衛門宅に長州系の浪士が出入りしているという噂が新撰組の耳に入ったことからでした。
そこで、新撰組が枡屋を家宅捜索すると、武器が大量に見つかったので、そのまま喜右衛門を連行することにしました。
喜右衛門は、新撰組の取り調べを受け、風の強い日に京都の町に火を放って、孝明天皇を長州に連れて行く計画があることを自白します。
また、枡屋喜右衛門は、仮の名で、本名は古高俊太郎という倒幕運動家であることもわかりました。
下の写真に写っている真ん中の墓碑が古高俊太郎のものです。
宮部鼎蔵と吉田稔麿の墓碑
古高俊太郎の自白により、新撰組は、四国屋と池田屋のどちらかで、長州系浪士たちの会合が行われることを知ります。
そこで、新撰組は、二手に分かれて四国屋と池田屋に向かうことにしました。
会合は、池田屋で行われており、近藤勇(こんどういさみ)率いる新撰組隊士たちと長州系浪士との間で斬り合いが起こります。
この時、桂小五郎も池田屋に訪れていたのですが、到着した時には、まだ誰もいなかったため、用事を思い出して、近くの対馬藩邸を訪ねている間に事件が起こり、難を逃れることができました。
池田屋に集まっていた浪士たちの中には、肥後の宮部鼎蔵(みやべていぞう)も含まれていました。
宮部鼎蔵は、吉田松陰とも交流があった人物で、もしも彼が池田屋で命を落とさなければ、明治になって政治の舞台で活躍したであろうといわれています。
下の写真の右から2つ目の墓碑が宮部鼎蔵のものです。
池田屋事件殉難者の墓碑の近くには、長州藩士の墓碑がずらっと並んでいます。
この中にも池田屋事件殉難者のものがいくつかあります。
上の写真の下の段の左から6つ目にある墓碑は、池田屋惣兵衛のものです。写真だと青い鉄柱に隠れていて写っていません。
池田屋惣兵衛も池田屋事件で捕えられ、その後、六角獄舎で亡くなっています。
長州藩士の墓碑が並んでいる敷地の一番上には、吉田稔麿(よしだとしまろ)の墓碑もあります。
吉田稔麿も池田屋で亡くなった浪士のひとりです。
稔麿は、松下村塾で吉田松陰の教えを受けた秀才で、彼もまた、明治時代まで生きていれば、政治の表舞台で活躍していたのではないかと思われます。
吉田稔麿は、一旦は、池田屋から脱出しましたが、長州藩邸に戻って事件を伝えた後、槍を持って再び池田屋に戻り討ち死にしたと伝えられています。
その他にも、望月亀弥太(もちづきかめやた)、北添佶摩(きたぞえきつま)など将来を嘱望された人物の墓碑もありましたよ。
なお、京都霊山護国神社の詳細については以下のページを参考にしてみてください。