京都市東山区にある三十三間堂の東に養源院というお寺が建っています。
養源院は、文禄3年(1594年)に豊臣秀吉の側室の淀殿が政伯法印(せいはくほういん)を開山として建立したのが始まりです。
浅井長政の追善供養
淀殿が養源院を建立したのは、父の浅井長政の追善供養のためでした。
寺名の養源は、浅井長政の法号です。
余談ですが、浅井長政は「あざいながまさ」と読むのが正しいと最近言われるようになっています。ちなみに私が小学生の頃に読んだ漫画の日本の歴史の本には、「あさいながまさ」と振り仮名が振ってありました。
淀殿の母は、織田信長の妹のお市の方です。
信長は、浅井家と同盟を結ぶためにお市を長政に嫁がせました。
浅井家は、同盟に際して織田軍が朝倉家を攻撃しないことを条件としましたが、後に信長はこの約束を破り、朝倉を攻撃します。
浅井は、朝倉と連合して織田軍と戦い続けましたが、天正元年(1573年)に小谷城の戦いで敗れ、長政は自害しました。
小谷城落城の際、お市の方は、3人の娘とともに織田家に引き取られ、その後、柴田勝家と再婚します。
しかし、柴田勝家も天正11年に賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで、豊臣秀吉に敗れ、お市の方は勝家とともに自害しました。
賤ヶ岳の戦い後、茶々、お初、お江(おごう)の3姉妹が残されました。
後に茶々は豊臣秀吉の側室の淀殿となり、お初は京極高次に嫁ぎます。
また、お江は江戸幕府2代将軍の徳川秀忠の正室となり、豊臣秀頼に嫁ぐ千姫を生んでいます。
お江が再建
さて、淀殿が浅井長政の追善供養のために建立した養源院ですが、大坂夏の陣で淀殿が亡くなって4年後の元和5年(1619年)に火災によって焼失しています。
しかし、その後すぐの元和7年に淀殿の妹のお江によって、養源院は再建されています。
再建の際、本堂の廊下の天井には、伏見城の板間が使われました。
関ヶ原の合戦の直前、東軍についた鳥居元忠は、伏見城にたてこもり西軍と戦いましたが、敗れて家臣とともに自害しました。
板間には、その時の血がべったりと付いており、彼らの霊を弔うために天井に上げたそうです。
そのため、養源院の天井は血天井と呼ばれています。
同様の血天井は、源光庵などにもありますね。
静寂な境内
三十三間堂の賑わいとは異なり、養源院の境内は、あまり観光客がおらず、静かなものです。
門をくぐり、緩やかな坂道を歩いて行くと、本堂に到着します。
本堂の入り口には、徳川家の家紋の三つ葉葵が見えます。
私は、本堂内に入ったことはないのですが、血天井や重要文化財に指定されている俵屋宗達の杉戸絵と襖絵を拝観することができるようです。
また、養源院は、境内の枝垂れ桜が春になると満開になることでも知られています。
写真は、「西陣に住んでます」さんの枝垂れ桜の養源院の記事に掲載されていますので、ご覧になってください。
なお、養源院の詳細については以下のページを参考にしてみてください。