京都市伏見区の下鳥羽に恋塚寺というお寺があります。
恋塚寺は、国道1号線と桂川の間に建つ小さなお寺のため、うっかり民家と間違えて通り過ぎそうになってしまいます。
この小さなお寺は、平安時代末期に袈裟御前の菩提を弔うために建てられました。
袈裟御前に惚れた遠藤盛遠
袈裟御前は、源渡と結婚していました。
ある日、袈裟御前の前に一人の男性が現れます。
それは、遠藤盛遠(えんどうもりとお)という武士でした。
盛遠は、上西門院に仕える北面の武士で、袈裟御前の従姉妹です。
袈裟御前の美しさに盛遠は、一目惚れし、彼女の母に二人との間を取り持つように迫ります。
この盛遠の行動に困惑した袈裟御前は、ある妙案を思いつきます。
それは、「夫の源渡が寝ているところを襲って、亡きものにしてくれたら、あなたのもとに参ります」と盛遠に伝えることでした。
そこで、この話を聞いた盛遠は、ある晩、源渡が寝ているところを襲います。
そして、源渡が寝ている布団をはいでみると、そこには動かなくなった袈裟御前が横たわっていました。
そう、彼女は、夫の身代りになって死ぬことを選んだのです。
盛遠は、自分の行為の愚かさを恥じて出家し、袈裟御前の菩提を弔うために恋塚寺を建てました。
この出家した遠藤盛遠が、後に怪僧と呼ばれることになる文覚(もんがく)なのです。
神護寺の再建に力を注いだ文覚
文覚は、出家して十年以上の間、修行をします。
そして、彼が尊敬する空海が修行した地である京都市右京区の高雄にある神護寺を訪れましたが、その時にはひどく荒廃していました。
荒れ果てた神護寺を見て文覚は嘆き、そして、自分の手で神護寺を再興することを誓います。
文覚は、四十五箇条起請文を作成し、後白河法皇に神護寺の再興を迫ります。また、源頼朝の援助も得ることができ、神護寺は以前にも増して繁栄しました。
今も京都を眺める文覚
神護寺を再興した文覚のお墓は、神護寺の敷地内にあります。
文覚のお墓まで行くには、険しい獣道のような山の道を通って行かなければなりません。
文覚のお墓に着いた頃には、服が汗でびしょびしょになりました。
神護寺の文覚のお墓からは、高雄の自然があふれる景色を眺めることができます。
さらに南東の方角に目をやると京都の街を眺めることができます。ここからでも京都タワーがはっきりと見えます。
文覚のお墓は、まるで京都市街を見守っているかのように作られていますね。
恋塚寺については、「桜貝のぶらり京都たび」さんの袈裟御前の伝説 恋塚寺の記事でも紹介されています。なぜ、恋塚が西に傾いて置かれているのかが解説されていますね。
なお、恋塚寺と神護寺については、下記のページにまとめています。
また、高雄への観光は、高雄を巡るで行き方や割引チケットを紹介していますので、参考にしてみてください。