神護寺を紹介しています。
由緒、見どころ、所在地、最寄駅などの情報を掲載。
神護寺
由緒
神護寺(じんごじ)は、和気氏の氏寺であった高雄山寺が前身とされる。山号は高雄山(たかおさん)。真言宗の遺迹本山(ゆいせきほんざん)
高雄山寺では、延暦21年(802年)に最澄が和気広世(ひろよ)の招きで法華経などの講演を行ったり、大同4年(809年)には空海が入山し約14年間この地で活躍したことなどから平安仏教の発祥地となった。
その後、和気清麻呂が建立した河内の神願寺がよごれた地に建っているのはふさわしくないという理由で、天長元年(824年)に清麻呂の子・真綱が高雄山寺と合併し神護国祚真言寺(じんごこくさしんごんじ)と改めた。神護寺の名は、神護国祚真言寺の上二字からとったものとされる。
空海の跡を継いだ真済(しんぜい)が伽藍を整え、五大虚空蔵菩薩坐像五軀を安置し、真言宗寺院としての基礎を固めた。
しかし、2度の火災で諸堂が焼失し衰退する。
その後、仁安3年(1168年)に文覚(もんがく)が寺内に草庵を建てる。文覚は、四十五箇条起請文を作成し、寿永3年(1184年)に後白河法皇の勅許を得て神護寺を再興する。神護寺再興には、源頼朝の援助もあった。
しかし、応仁の乱(1467年)によって神護寺は再び荒廃する。
復興が行われたのは安土桃山時代以降で、豊臣家や徳川家などの援助で次第に再建されていった。
神護寺参道
神護寺には、長い石段の参道を上っていく。入口の楼門までは10分程度の時間がかかる。
硯石
参道の中ほどにある硯石。空海が急な五月雨で橋が流されたため、この石を硯として対岸に立てかけた額に向けて筆を投げたところ「金剛定寺」の4文字が書かれたとされる。金剛定寺は現存していない。
楼門
長い参道を上ると神護寺の楼門がある。ここで拝観受付をする。拝観料は500円。
書院
楼門をくぐった右手に建つ書院。
鐘楼
書院からしばらく歩いた小高い丘に建つ鐘楼。貞観17年(875年)に鋳造されたもの。鐘の銘文は、橘広相(たちばなのひろみ)、菅原是善、藤原敏行の3人によるもので、「三絶の鐘銘」と言われる。
明王堂
鐘楼の建つ小高い丘の麓にある明王堂。
金堂
昭和10年(1935年)に建立された金堂。本尊の薬師如来立像、日光・月光菩薩立像が安置されている。
五大堂
金堂の石段下に建つ五大堂。
毘沙門堂
五大堂と並ぶように建つ毘沙門堂。
大師堂
重要文化財の大師堂。弘法大師空海の住房跡とされる。
多宝塔
金堂の北側に建つ多宝塔。国宝の五大虚空菩薩坐像を安置している。
地蔵院
神護寺境内の西の端にひっそりと建つ地蔵院。
天下の絶景かわらけ投げ名所
錦雲渓(きんうんけい)と呼ばれる清滝川の渓谷を一望できる場所。地蔵院からやや南にある。近くの茶店で土器(かわらけ)を買い、願い事をして渓谷に投げる「かわらけ投げ」を体験できる。
分かれ道
金堂の近くにある分かれ道。左は性仁法親王墓と文覚上人墓に行き、右は和気清麻呂公墓に行く。性仁法親王墓と文覚上人墓への山道はかなり険しく、体力に自信のない方は控えた方が無難。
和気清麻呂公墓
分かれ道の右側を少し歩くと着く和気清麻呂公墓。
性仁法親王墓
分かれ道の左側の険しい山道を上りきった場所にある性仁法親王墓。
文覚上人墓
性仁法親王墓の隣には文覚上人墓がある。
神護寺のもう一つの絶景
険しい山道を上りきらなければ見ることができない絶景。京都タワーや東山を望むことができる。
神護寺の所在地
〒616-8292
京都市右京区梅ヶ畑高雄町5(地図)
神護寺への行き方
JRバスまた市バスの「高雄」から徒歩約20分
※拝観料800円が必要。
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