保津峡を開削した角倉了以の屋敷跡
京都府亀岡市の保津峡を川下りする保津川下りは、観光客の方に人気があります。 保津川下りは、JR亀岡駅近くから嵐山の渡月橋までの約16kmを2時間かけて下ります。 このような遊びができるのは、江戸時代に角倉了以(すみのくらりょうい)が保津峡を開削してくれたからなんですよね。
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京都府亀岡市の保津峡を川下りする保津川下りは、観光客の方に人気があります。 保津川下りは、JR亀岡駅近くから嵐山の渡月橋までの約16kmを2時間かけて下ります。 このような遊びができるのは、江戸時代に角倉了以(すみのくらりょうい)が保津峡を開削してくれたからなんですよね。
京都市右京区の世界遺産に登録されている龍安寺(りょうあんじ)は、虎の子渡しの庭と呼ばれる枯山水庭園で有名です。 多くの拝観者の方は、これを見ることが目的なのですが、実際に庭園を見て、想像していたよりも小さいと思うのではないでしょうか。 それでも、お目当ての石庭を見ることができたからか、満足げな表情で建物から出てますので、庭園鑑賞を満喫されてるんでしょうね。 でも、龍安寺に来て、石庭だけを見て帰るのはもったいないです。 石庭の反対側の庭には、水戸光圀が寄進した蹲踞(つくばい)があるので、これも見ておきたいですね。
京都を観光する場合、お寺を拝観することが多いと思います。 お寺といっても、宗派が異なっていると、建っている建物にも違いがあるわけで、どこでも同じものを鑑賞できるわけではありません。 私がこれまで京都のお寺に参拝して、立派な建物だなと感じたのは宸殿(しんでん)ですね。 宸殿は、皇室関係者が代々住職を勤めてきた門跡寺院(もんぜきじいん)特有の建物で、格式が高いのが特徴です。 今回の記事では、私がこれまでに見たことがある京都の門跡寺院の宸殿を紹介します。
京都には、難読地名がたくさんあります。 蛸薬師(たこやくし)を一見して読める方は、なかなかの京都通と言えるのではないでしょうか。 でも、京都通の方でも、化野をすぐに読める方となると、その数は、かなり減りそうです。 「ばけの」や「かの」、「けの」と読んでしまいそうですが、化野と書いて「あだしの」と読むのが正解です。 化野は、京都市右京区の嵯峨野の北にある地名です。 いったい、なぜ、このような変わった名がついたのでしょうか。
京都市右京区の西院に建つ西院春日神社は、藤の名所です。 藤の見ごろ時期は、大体ゴールデンウィーク中ですね。 私が西院春日神社にお参りをしたのは、4月末でした。 藤を観賞するには、ちょうど良い頃。
延元3年(1338年)5月の北畠顕家の戦死と7月の新田義貞の戦死で、南朝は大きな打撃を受けました。 すでに楠木正成も名和長年もこの世にはいないので、南朝の主だった武将はほとんどいなくなりました。 そのような中、延元4年8月16日に後醍醐天皇もこの世を去りました。
延元2年(1337年)3月に新田義貞の嫡子の義顕と尊良親王(たかながしんのう)がたてこもる敦賀の金ヶ崎城が足利高経によって落とされました。 金ヶ崎城には新田義貞もいたのですが、落城の1ヶ月前に脇屋義助と洞院実世(とういんさねよ)とともに杣山城(そまやまじょう)へ脱出しています。 足利軍は、捕えた恒良親王(つねながしんのう)から、義貞は自害して果てたと聞かされていたので、これで一安心と思っていました。
建武3年(1336年)1月。 京都に攻め込んできた足利尊氏軍を後醍醐天皇方が追い返すことに成功します。 これにより、一時的に東坂本に避難していた後醍醐天皇は、再び京都の花山院に戻ることができました。 京都を追い出された足利尊氏は、西へ撤退。 後醍醐天皇に仕える楠木正成は、すかさず追い討ちをかけようとしましたが、天皇方は、勝ちに浮かれて足利軍を追撃しようとしませんでした。
京都市右京区の車折神社(くるまざきじんじゃ)の境内に芸能神社という神社があります。 その名のとおり、芸事の上達にご利益があるわけで、芸能人の方の参拝も多いです。 芸能神社が、芸事の上達にご利益があるのは、祭神として祀られている天鈿女命(あめのうずめのみこと)と関係があります。
京都の建物を拝観すると、床がキュッキュッと鳴ることがあります。 お寺にしても神社にしても、古い建物なので、床が傷んでいるんだろうなと思ってしまいますが、実はこのキュッキュッと鳴る音は、建物の劣化によって起こっているわけではありません。 実は、建築時にわざとこのような音が鳴るように設計されているのです。 こういったキュッキュッと鳴る床は鴬張りと呼ばれています。 今回の記事では、鴬張りの廊下がある京都の建物をいくつか紹介します。