崇源院、春日局、徳川忠長の供養塔・金戒光明寺
京都市左京区の金戒光明寺の墓地には、崇源院、春日局(かすがのつぼね)、徳川忠長の供養塔があります。 いずれも江戸時代初期の人物で、お互いに深い関係があることで知られています。
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京都市左京区の金戒光明寺の墓地には、崇源院、春日局(かすがのつぼね)、徳川忠長の供養塔があります。 いずれも江戸時代初期の人物で、お互いに深い関係があることで知られています。
治承4年(1180年)5月。 以仁王(もちひとおう)が源頼政とともに平家追討のために挙兵します。 以仁王側には園城寺(おんじょうじ)などの僧も加わりましたが、最終的に平家によって鎮圧されました。 この挙兵に僧が加わったことが、後に平家による南都焼討へとつながり、その時の総大将であった平重衡(たいらのしげひら)の運命を変えることになります。
京都の街を歩いていると今まで何もなかった場所にいつのまにか石碑が置かれているということがよくあります。 伏見区の京阪墨染駅から西に10分ほど緩やかな坂を下って行ったあたりにも、平成21年(2009年)12月に建立されたばかりの石碑があります。 その石碑には、「この付近 近藤勇 遭難の地」と刻まれています。
慶応3年(1867年)11月15日。 この日、京都市中京区の近江屋で坂本竜馬と中岡慎太郎が暗殺されました。 暗殺したのは京都見廻組の今井信郎というのが通説となっていますが、当時は、2人を暗殺したのは新撰組と思われていました。
京都市下京区の六条堀川は、源頼義、義家、為義、為朝、義経など、源氏の邸宅の六条堀川邸があった場所として知られています。 元暦2年(1185年)10月。 この六条堀川邸で、源義経が襲撃されるという事件が起こりました。
京都に建つお城と聞いてすぐに思いつくのは、中京区の二条城ではないでしょうか。 この二条城は、慶長8年(1603年)に徳川家康によって京都御所の守護と将軍上洛時の宿泊所として造営されたものです。 二条城と言えば、通常、徳川家康の二条城を指しますが、実は家康が二条城を造営する以前にも二条城が存在していたことをご存知でしょうか。
平安時代、京都市東山区の京阪電車の清水五条駅から七条駅あたりまでの地域を六波羅といいました。 六波羅は、平清盛の邸宅があったことで知られています。 清盛の邸宅は、他に下京区の西八条にもありました。 もちろん、清盛はどちらの邸宅にも住んでいました。
1338年から1573年まで続いた室町幕府。 14世紀後半の南北朝の争乱や1467年の応仁の乱から始まった戦国時代など、室町幕府は政治的には不安定な政権だったと言えます。 しかし、室町時代は、文化的には北山文化や東山文化などが花開いた時代でもありました。 特に歴代の足利将軍が建立した寺院は文化的に優れたものが多く、天龍寺、金閣寺、銀閣寺に関しては世界文化遺産に登録されるなど、高い評価を受けています。 そこで、今回の記事では、上記3つの寺院と創建した足利将軍について紹介したいと思います。
前回の記事では、室町幕府の史跡が質素だということを紹介しました。 その理由は、長い間、足利尊氏が後醍醐天皇に刃向かった逆賊という評価を受けていたことによるのではないかと言われています。 足利尊氏は14世紀の人物であるのに、彼への偏見は戦時中まで続きました。 特に幕末には、天皇を敬う尊王思想が流行したことから、尊氏に対して強い批判がありました。 そして、その偏見は、足利将軍木造梟首(きょうしゅ)事件へと発展したのです。
鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府。 いずれも武家の棟梁が築いた政治体制で、征夷大将軍になったのは全て源氏です。 源氏といえば、坂東武者というイメージが強いので、鎌倉幕府や江戸幕府のように政治の中心を関東に置いたことは当然のことだと思います。 しかし、室町幕府は関東ではなく、京都を政治の中心としました。 足利尊氏が京都に幕府をつくったことで、北山文化や東山文化が開花し、そのおかげで今日、金閣寺や銀閣寺に観光に行けるのですから、感謝しなければなりませんね。 ところで、室町幕府の史跡を観たことがあるでしょうか。 江戸城のように大きなものが存在していても良さそうなのです...