京都にもある諏訪神社・尚徳諏訪神社

諏訪と聞いてすぐに思い浮かぶのは、長野県の諏訪ではないでしょうか。

長野県の諏訪には、諏訪大社という神社があります。

なので、諏訪と名のつく神社は長野県にだけあるように思ってしまいますが、実は全国各地に諏訪神社は存在しています。

もちろん京都にも下京区に諏訪神社があります。

神社の歴史は坂上田村麻呂まで遡る

京都市下京区の諏訪神社は、東本願寺を北に少し歩いた下諏訪町に建っています。

なお、現在の社名は尚徳諏訪神社となっています。

尚徳諏訪神社は、外から見ただけでも、それほど広くないことが伺えます。

鳥居もすごく質素で、周辺の民家に溶け込んでいますね。

尚徳諏訪神社の入り口

尚徳諏訪神社の入り口

尚徳諏訪神社の歴史は古く、平安時代初期にまで遡ります。

桓武天皇から征夷大将軍に任命された坂上田村麻呂は、蝦夷を平定するために東北へと出陣しました。

田村麻呂は、以前から信州の諏訪大明神を深く信仰しており、蝦夷を平定できたのも諏訪大明神の御神徳によるものだと考えました。

そこで京都に戻った田村麻呂は、延暦20年(801年)に諏訪大明神の御分霊を勧請(かんじょう)し、五条坊に祀ります。

これが尚徳諏訪神社の始まりです。

権力者の援助で何度も復興される

尚徳諏訪神社は、1200年以上の歴史があるわけですが、必ずしも現在まで順調にきたわけではありません。

坂上田村麻呂が創建して以降、次第に諏訪神社は荒廃していきます。

荒廃した諏訪神社を最初に復興したのは、源義経でした。

義経は、文治2年(1186年)に樹木を植えたり、池を作ったりして創建当時にも勝る神域を整えます。

しかし、義経が復興した諏訪神社も建武年間(1334-1336年)に兵火に遭い焼失してしまいました。

それでも室町幕府3代将軍の足利義満によって再建され、その後も江戸時代には幾度か徳川家によって復興が行われています。

最後に焼失したのは、幕末の蛤御門の変の時です。

今まで武士によって再建されてきた諏訪神社でしたが、この時は孝明天皇から150両の寄進を受けて慶応2年(1866年)に再建されました。

しかし、この時の再建は以前ほどの規模では行われなかったようですね。

境内の狭さから、そのことが伺えます。

境内

境内

社殿も非常に小さいです。

社殿

社殿

もっと小さいのは社殿の脇に祀られている弁財天です。

高さと横幅はノートくらいしかないのではないでしょうか。

これだけ小さいと親しみがわいてきますね。

弁財天

弁財天

また、諏訪大明神の由緒書を読んでいると「精進潔斎を形だけする者より、肉を食べても真心こめて祈る者を救おう」と書かれていました。

この言葉については、「蘭鋳郎の日常」さんの下記記事で詳しく解説されていますので、ご覧になってください。

なお、尚徳諏訪神社の詳細については以下のページを参考にしてみてください。

宿泊