京都市左京区に金戒光明寺というお寺があります。
場所は、平安神宮から北東に5分程度歩いたところで、近くには真如堂や吉田神社もあります。
金戒光明寺は、浄土宗のお寺なのですが、会津藩と所縁のあるお寺でもあります。
会津藩と京都守護職
時は、江戸時代末期の文久2年(1862年)。
京都は、長州藩や土佐藩などの過激浪士が天誅と称してテロ行為を繰り返していました。
そのため、治安は悪化し、都の人々は震えあがり、安心して眠れない日々が続きました。
そこで、江戸幕府は京都の治安を守るために、従来の京都所司代と京都町奉行に加え、新たに京都守護職を置くことにしたわけです。
この時、京都守護職に任命されたのが会津藩主の松平容保(まつだいらかたもり)だったのです。
当時の会津藩は財政的に窮乏し、また、幕府の権勢が衰えてきていたことから、家老の西郷頼母(さいごうたのも)と田中土佐は、京都守護職を辞退するように容保に進言します。
しかし、会津藩は将軍家を守護する存在であったことから、容保は止むを得ず、京都守護職に就任したのです。
京都守護職本陣
松平容保が京都守護職に就任し、約1000名の藩士を率いて上洛した際に本陣としたのが金戒光明寺です。
当寺が、京都守護職本陣とされたことには以下の理由が挙げられます。
- 城構えであること
- 要所に近い
- 千名の軍隊が駐屯できる
詳細については、金戒光明寺のホームページを参考にしてください。
京都の文化を守った会津藩
会津藩が京都守護職となった翌年の文久3年8月18日。
この日、京都ではクーデターが起こり、会津藩と薩摩藩が協力し、朝廷における政論に力を持っていた長州藩を京都から追放します。
これが8月18日の政変とか禁門の政変と呼ばれる事件で、長州藩は数人の公卿とともに京都から退散します。世に言う七卿落ちです。
もちろん、京都から追い出された長州藩は黙ってはいません。
翌年の元治元年(1864年)に再び京都に舞い戻ってきます。その目的は、京都に火を放ち天皇を長州に連れていくというもの。
しかし、この目論見は、会津藩預かりの新撰組によって阻止されます。
新撰組は長州藩の目論見を察知し、長州藩を中心とした浪士たちが潜入している池田屋に討ち入り、京都の町が放火されるのを未然に防いだのです。
これが、池田屋事件なのですが、この1カ月後に今度は兵を率いて長州藩が上洛し、遂に会津・薩摩藩の連合軍と京都御所の蛤御門で衝突します。
残念なことに、この時ばかりは京都市中の大半が焼けてしまいました。
長州藩が陣を敷いた天龍寺も薩摩藩の攻撃によって焼けてしまいます。
それでも、会津藩が京都を守っていなければ、さらに多くの文化財が焼けていたかもしれませんので、会津藩が京都守護職として果たした役割は大きかったのではないでしょうか。
会津墓地
金戒光明寺には、幕末に京都の治安を守った会津藩士たちのお墓があります。
境内の北東の小高い丘に建っている西雲院の墓地がそれです。
蛤御門の変で亡くなった会津藩士のお墓は一段高い台に祀られており、今も京都の街を見守っています。
会津藩と京都守護職については、以下のサイトで詳しく紹介されています。
金戒光明寺については以下のページを参考にしてみてください。