京都市伏見区の伏見稲荷大社は、近年、海外からの旅行者に最も人気がある京都の観光名所となっています。
また、商売繁盛のご利益でも有名なため、正月には、多くの初詣客で賑わいます。
そんな伏見稲荷大社を訪れたとき、ほとんどの人がくぐるのが参道に建っている楼門です。
この楼門、建立したのは、豊臣秀吉です。
母の病気平癒と引き換えに造営
伏見稲荷大社の最寄り駅は、JRの稲荷駅です。
駅を出ると目の前に第一鳥居があり、それをくぐって参道を東に進んでいくと、第二鳥居の奥に楼門が建っているのが見えます。
屋根は入母屋造檜皮葺(いりもやづくりひわだぶき)と落ち着きのある焦げ茶色をしていますが、屋根の下は鮮やかな朱色が目立ちます。
楼門とは、2階建ての門のことですが、1階部分に屋根がある門を二重門、1階部分に屋根がない門を楼門といって区別することがあります。
豊臣秀吉が、この楼門を造営することになったのは、母の大政所(おおまんどころ)の病気平癒を祈願しに当社に参拝したことがきっかけでした。
天正16年(1588年)6月に秀吉は、母の病悩平癒祈願が成就すれば一万石奉加するとの「命乞いの願文」を記しました。
そして、大政所の病が癒えたことから、翌天正17年に本復御礼の奉加米(ほうがまい)をもって、楼門を造営します。
しかし、この話は、どうも単なる言い伝えらしいぞと言われ、史実かどうか怪しまれていました。
豊臣秀吉には、数々の伝説がありますから、伏見稲荷大社の楼門の造営も、その類のものだろうと。
ところが、昭和48年(1973年)の楼門解体修理の際、秀吉の願文と同じ「天正十七年」の墨書が発見され、秀吉が造営したことは事実だったと確認されたのです。
秀吉が造営した時、楼門は今よりも約9メートル奥に建っていたのですが、元禄7年(1694年)の社頭拡張時に西に五間(約9メートル)移動させ、その時に石段も造られました。
また、元禄7年の工事では、それまで築地塀であった楼門左右の回廊が、絵馬掛所として新造されています。
下の写真の楼門の右側に写っている背の低い屋根がある部分が回廊です。
現在の廻廊は、彫刻部材等から見て天保年間(1830-1844年)のものと考えられています。
秀吉が造営した時の楼門の屋根は、板葺でしたが、明治14年(1881年)に現在の檜皮葺に変わっています。
また、回廊の屋根も同様にこの時期に板葺から檜皮葺に変わっています。
現在は、朱色が鮮やかな楼門ですが、かつては、下の写真のように朱色が薄くなっていました。
現在の鮮やかな朱色が甦ったのは、平成22年(2010年)から翌23年にかけて行われた塗装工事の後です。
この頃は、まだ、海外からお越しの方の姿をほとんど見ることはなかったのですが、塗装工事から数年後には、いろんな国籍の人々で境内が賑わうようになりました。
豊臣秀吉が造営した伏見稲荷大社の楼門。
400年以上の間にいったいどれだけの人々が、この楼門をくぐったのでしょうか。
なお、伏見稲荷大社の詳細については以下のページを参考にしてみてください。