京都は、今では、すっかり観光都市となっていますが、幕末には政治が動いた地でした。
坂本竜馬や新撰組など、数多くの幕末の有名人が、ここ京都を舞台に新たな時代に向かって駆け抜けていきました。
また、大政奉還など政治的に重要な事件もまた、京都で起こりました。
そんな幕末のロマン満載の京都は、多くの旅行者や観光客が宿泊できるようにたくさんのホテルが建っています。
そして、それらホテルの中には、幕末の有名人が滞在した場所に建っていたり、重大な事件現場の近くに建っていたりするものもあります。
幕末の志士たちの足跡をたどるために京都に観光でお越しの際は、これら、幕末の有名人ゆかりの地や事件現場近くに建つホテルに宿泊すると、より一層、幕末京都の旅を楽しめることでしょう。
そこで、今回の記事では、幕末の有名人が滞在した場所や重大事件が起こった場所の近くに建つホテルを紹介します。
橋本左内が滞在した地
嘉永6年(1853年)の黒船来航以来、国内では、開国すべきか鎖国を続けるべきか議論が交わされていました。
開国するにしても、孝明天皇から勅許を得て日米修好通商条約に調印すべきだという意見が出るとともにこの国難を乗り切るためには、13代将軍家定の後継者は、英邁な年長者を選ぶべきだとの意見も出されました。
そこで、福井藩士の橋本左内は、次期将軍の後継者に水戸藩の出である一橋慶喜を推挙するよう朝廷工作をします。
橋本左内が、京都で働いていた頃に滞在していたのが、現在の京都市中京区にある二条城の東に建つHOTEL THE MITSUI KYOTOです。
ホテルの西側の歩道には、今もここが福井藩邸跡であることと橋本左内の寓居後であったことを示す石碑が立っています。
当時の福井藩主は、政事総裁職として幕府の政治に関わった松平慶永であり、彼もまた、ここに滞在していました。
HOTEL THE MITSUI KYOTOの最寄り駅は、地下鉄の二条城前駅で、駅からは北に徒歩約5分です。
京都守護職松平容保が宿泊した地
橋本左内らが朝廷工作をし、一橋慶喜を次期将軍に推挙しようとしたことに対し、大老の井伊直弼はこれを退け紀州の徳川慶福(とくがわよしとみ/のちの家茂)を次期将軍とすることを決定しました。
そして、一橋派を一掃するため、井伊直弼は弾圧を加え、水戸藩、一橋慶喜、松平慶永らが処分を受けます。
さらに橋本左内らも捕縛されて、処刑されたり、獄死したりしました。
しかし、このやり方に不満を持った水戸浪士たちが井伊直弼を桜田門外で暗殺すると、それをきっかけに京都でも、井伊直弼の安政の大獄に加担した者たちが次々に暗殺されていきました。
そこで、文久2年(1862年)に京都守護職に任命された会津藩主の松平容保(まつだいらかたもり)が上洛し、京都市左京区の金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)を宿所として、京都の治安維持にあたります。
その金戒光明寺のすぐ南には、ホテル平安の森京都が建っています。
家臣に反対されながらも京都守護職となった松平容保は、尊王攘夷(そんのうじょうい)を唱え治安を乱す志士たちとの対話を試みます。
しかし、足利将軍の木造の首が三条河原にさらされた事件をきっかけに厳しい態度で不逞浪士を取り締まることを決意しました。
ホテル平安の森京都は、市バス停「岡崎神社前」から下車してすぐです。
翠紅館会議が開かれた地
松平容保が上洛して間もない文久3年1月27日。
京都市東山区の翠紅館で会議が行われました。
会議の主な参加者は、以下のとおりです。
- 長州=毛利定広、久坂玄瑞、寺島忠三郎、松島剛蔵
- 肥後=宮部鼎三(みやべていぞう)、山田十郎、河上彦斎(かわかみげんさい)
- 対馬=多田荘蔵
- 水戸=金子勇次郎、住谷寅之介
- 土佐=武市半平太、平井収二郎
会議では、言論の自由、人材登用の話も行われましたが、幕府に攘夷実行の期限を決めさせるとともに将軍家茂をどうやって上洛させるかが議題の中心となりました。
現在、高台寺の南に翠紅館跡の石碑があり、その石碑の南側にはパークハイアット京都が建っています。
翠紅館会議の出席者は、今のパークハイアット京都の敷地内を歩いたことでしょう。
七卿落ちの舞台となった地
文久3年は、長州藩や土佐藩の志士たちが、三条実美らの公卿公家とともに朝廷を牛耳っていました。
彼らは、孝明天皇の知らないところで偽の勅命を乱発し、やりたい放題していましたが、ついに孝明天皇の怒りを買い、8月18日に京都御所の警備を解かれることになりました。
その日、長州藩の久坂玄瑞や公卿の三条実美らは、東山の妙法院に集まり長州に落ち延びることを決定し、京都を出発します。
七卿落ちの計画が行われた妙法院の北にあるのが、フォーシーズンズホテル京都です。
かつては妙法院の境内だった場所に建っているので、久坂玄瑞らも、ホテルの敷地内を歩いたかもしれません。
フォーシーズンズホテル京都は、市バス停「馬町」からすぐです。
土佐藩出身者が滞在した地
妙法院から南に5分ほど歩くと、ハイアットリージェンシー京都が建っています。
ハイアットリージェンシー京都の南側の塩小路通沿いには、土佐志士寓居跡の石碑があります。
この地は、坂本竜馬がのちに妻とするお竜と出会った場所とされています。
また、土佐脱藩浪士の北添佶摩(きたぞえきつま)や望月亀弥太(もちづきかめやた)、池内蔵太(いけくらた)も滞在していました。
ハイアットリージェンシー京都は、市バス停「東山七条」からすぐです。
池田屋事件の現場からすぐのホテル
京都から追放された長州藩は、翌元治元年(1864年)6月に京都の町を放火し、孝明天皇を長州に連れ去る計画を進めます。
その計画が話し合われたのが中京区の三条小橋西詰にあった池田屋です。
長州藩の計画をいち早く察知した新撰組は、すぐに池田屋を襲撃し、長州藩や土佐藩の脱藩浪士たちを捕縛しました。
この池田屋事件が起こった現場のほんの少し西に建つのが、ザ ロイヤルパークホテル 京都三条です。
事件当時、このホテル付近にいた人は、池田屋での大乱闘の声や音を聞いたことでしょう。
ザ ロイヤルパークホテル 京都三条の最寄り駅は、地下鉄三条京阪駅または京阪電車の三条駅です。
駅からは、西に徒歩約5分です。
長州藩邸があった地
池田屋事件の当日、長州藩士の桂小五郎は偶然事件現場におらず、新撰組に捕縛されませんでした。
彼が、京都に滞在していた際、池田屋の北、河原町御池にあった長州藩邸に泊まっていました。
現在、長州藩邸跡にはホテルオークラ京都が建ち、ホテルの敷地内には桂小五郎像も置かれています。
また、ホテルーオークラ京都の東側には、桂小五郎の妻の幾松も住んでおり、彼女が桂小五郎を池田屋事件の後、京都から逃げ出すのを手伝ったとされています。
ホテルオークラ京都は、まさに幕末の激動の中にあった長州藩邸跡に建っているので、当時の雰囲気に浸るのに適したホテルですね。
ホテルオークラ京都の最寄り駅は、地下鉄の京都市役所前駅です。
ホテルは、駅を出てすぐの場所に建っています。
新撰組の2番目の屯所跡
池田屋事件からほどなく、新撰組は、中京区の壬生から下京区の西本願寺に屯所を移すことにしました。
西本願寺は、長州藩との関わりが深く、その監視が目的と言われています。
現在も、西本願寺には新撰組が屯所としていた頃から建つ太鼓楼があります。
西本願寺から北に少し歩くと、京都東急ホテルが建っています。
新撰組が西本願寺を屯所としていた頃は、隊士たちが京都東急ホテルの周辺も見回りをしていたかもしれませんね。
京都東急ホテルは、地下鉄五条駅から西に徒歩約12分です。
薩長同盟締結の地
京都から長州藩を追い落とした幕府でしたが、長州征伐は思うように進まず、長州藩の息の根を止めることはできませんでした。
その頃、土佐の坂本竜馬と中岡慎太郎は、薩摩藩と長州藩を結び付けるために活動していました。
そして、慶応2年(1866年)1月に上京区の近衛邸で薩長同盟が締結されました。
近衛邸の跡地は諸説ありますが、一条戻り橋の近くが近衛邸跡と推定されています。
その少し南にあるのが、京都ブライトンホテルです。
坂本竜馬や中岡慎太郎は、京都ブライトンホテルの周辺を駆け回ったかもしれませんね。
京都ブライトンホテルは、地下鉄丸太町駅から北西に徒歩約9分です。
後藤象二郎が滞在した地
薩長同盟が締結されると、土佐藩も時勢に乗り遅れまいと活発に行動し始めます。
土佐藩の参政であった後藤象二郎は、脱藩した坂本竜馬に接近し、幕府が政権を朝廷に返上する大政奉還の実現に向けて働きます。
その後藤象二郎の京都での滞在場所は、中京区の河原町通三条下るにありました。
現在、ホテルリソル京都 河原町三条が建っており、その入り口には、後藤象二郎の寓居跡を示す石碑があります。
ホテルの東側の木屋町通沿いには、土佐藩邸もあったことから、この周辺を後藤象二郎が歩いていたと推測できます。
ホテルリソル京都 河原町三条の最寄り駅は、地下鉄の京都市役所前駅で、駅からは南に徒歩約5分です。
坂本竜馬が滞在した酢屋
土佐藩が、大政奉還の実現に向けて動いているとき、坂本竜馬は、後藤象二郎が滞在していた地から北に少し歩いた場所にある酢屋を活動の拠点としていました。
その頃、坂本竜馬は海援隊を組織しており、酢屋は、海援隊の屯所でもありました。
薩長主導の武力討幕か、土佐藩が進める大政奉還か、いよいよ幕末から明治へと時代は変わろうとしていました。
現在も営業している酢屋で、坂本竜馬ら海援隊は、どのような活動をしていたのでしょうか。
その酢屋の目の前に建っているのが、クロスホテル京都です。
坂本竜馬も間違いなく、クロスホテル京都の前の竜馬通を歩いたはずです。
クロスホテル京都の最寄り駅は、地下鉄の三条京阪駅または京阪電車の三条駅で、どちらの駅からも南西に徒歩約5分です。
新撰組の洛中最後の屯所
風雲急を告げる中、新撰組は、西本願寺から不動堂村に屯所を移しました。
この不動堂村の屯所が、新撰組の洛中最後の屯所になります。
不動堂村屯所跡の詳しい位置はわかっていませんが、京都駅の南にあるリーガロイヤルホテル京都の入り口付近にそれを示す石碑があります。
このあたりの建物から、新撰組隊士が続々と出てきて、不逞浪士の捕縛に向かったのでしょうね。
リーガロイヤルホテル京都の最寄り駅は、各線京都駅です。
駅からは南に徒歩約5分です。
大政奉還が宣言された二条城
慶応3年(1867年)10月に土佐藩のすすめに応じた15代将軍慶喜は、二条城の二の丸御殿で大政奉還を宣言しました。
これにより、約260年続いた江戸幕府は終わりを迎えます。
堀川通を挟んだ二条城の東隣には、ANAクラウンプラザホテル京都が建っています。
客室からは、二条城を望むことができます。
実際に二条城を拝観して、大政奉還が宣言された二の丸御殿の中を見るのも良いでしょう。
二の丸御殿の大広間一の間には、大政奉還の様子を再現した人形が置かれていますよ。
ANAクラウンプラザホテル京都には、地下鉄の二条城前駅から北東に3分ほど歩くと到着します。
坂本竜馬が最後に宿泊した近江屋
徳川慶喜が大政奉還を宣言した1ヶ月後、坂本竜馬と中岡慎太郎は、中京区の河原町通蛸薬師下るにあった近江屋に宿泊していました。
これが、2人の京都での最後の宿泊になります。
坂本竜馬の潜伏先を知った京都見廻組は近江屋に向かい、2人を暗殺して立ち去りました。
現在、事件現場には、近江屋跡を示す石碑が立っています。
蛸薬師通を挟んだ北側には、ホテルミュッセ京都四条河原町名鉄が建っています。
坂本竜馬と中岡慎太郎が最後に泊まった近江屋跡はすぐ近くです。
また、近江屋跡の近くには、中岡慎太郎寓居跡の石碑もあるので、ホテルミュッセ京都四条河原町名鉄に宿泊した際は、こちらにも立ち寄ると良いでしょう。
ホテルミュッセ京都四条河原町名鉄は、阪急電車の京都河原町駅から北に徒歩約5分です。
京都には、幕末の史跡が多くあります。
これら幕末の史跡をめぐるのも、京都観光の楽しみ方の一つですね。
この記事で紹介したホテルのいずれかに泊まれば、幕末の志士たちがより身近に感じられることでしょう。