松平春嶽の京都の拠点・福井藩邸跡

京都市中京区に京都国際ホテルというホテルが建っています。

その京都国際ホテルの敷地の南西の端には、福井藩邸跡の石碑があります。

福井藩と言えば、幕末に藩主となった松平慶永(まつだいらよしなが)が有名です。

ちなみに松平慶永は、松平春嶽(しゅんがく)の名でも知られています。

14代将軍の後継問題で謹慎

下の写真に写っているのが、福井藩邸跡の石碑です。

福井藩邸跡

福井藩邸跡

石碑の説明書によると、福井藩の京都の藩邸は、京都連絡事務所で、留守居役が詰め、町人の御用掛を指定して、各種の連絡事務に当たったところだそうです。

幕末、藩主となった松平慶永は、藩政改革の他、幕政改革にも参加しました。

嘉永6年(1853年)のペリー来航以後、幕府の力が衰えていく中、14代将軍を誰にするのかという後継問題が起こります。

慶永は、薩摩藩の島津斉彬(しまづなりあきら)などと協力し、一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)を14代将軍に就任させ、幕府を建て直そうと運動しました。

しかし、慶永の努力の甲斐なく、井伊直弼(いいなおすけ)が推す徳川慶福(とくがわよしとみ)が最終的に14代将軍となりました。

ちなみに慶福は将軍となって家茂(いえもち)と名を改めています。

この将軍後継問題に口出ししたことや日米修好通商条約に反対したことを理由に松平慶永は、井伊直弼によって謹慎させられました。

側近として採用した橋本左内

松平慶永は、幅広く有能な人材を登用した名君として知られています。

慶永が登用した人材の中には、橋本左内もいました。

橋本左内は、医者の子だったため、当時としてはそれほど身分が高くなかったのですが、その才能を松平慶永に見いだされ、幕政改革に参加します。

また、上記の将軍後継問題では、慶永が推す一橋慶喜を14代将軍とするべく、京都で活躍しました。

その時の左内の京都の住まいが、現在の京都国際ホテル付近にあった福井藩邸です。

橋本左内寓居跡

橋本左内寓居跡

上の写真は、京都国際ホテルの敷地の北西にある橋本左内寓居跡の石碑です。

説明書によると、橋本左内は安政5年(1858年)2月から4月まで、福井藩邸に住んでいたそうです。

14代将軍が徳川家茂に決まると、橋本左内は、井伊直弼の安政の大獄によって捕えられ、安政6年に処刑されました。

その後、万延元年(1860年)に桜田門外の変で、井伊直弼が水戸浪士達に暗殺されると、松平慶永は、謹慎を解かれ、再び幕政改革に参加します。

しかし、慶永の活躍によっても幕府の衰退を止めることができず、結局、慶応3年(1867年)に15代将軍の徳川慶喜(一橋慶喜)が、政権を朝廷に返上する大政奉還を行ったことで、江戸幕府は終わりを迎えます。

その大政奉還は、福井藩邸の目の前にある二条城で行われました。

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