寺田屋の庭を見て幕末の伏見を想像する

京都市伏見区は、幕末に様々な事件が起こった地です。

薩長両藩が幕府軍に勝利した鳥羽伏見の戦いは、その名のとおり伏見で起こっていますし、それ以前にも歴史に残る事件が、ここ伏見では数多く起こっています。

そして、幕末の事件の現場となることが多かったのが旅籠(はたご)の寺田屋で、今も建物が残っています。

庭には祀られたお登勢明神

寺田屋は、京阪電車の中書島駅から北に5分ほど歩いた辺りに建っています。

江戸時代から続いているとあって、建物はかなり年季が入っています。

寺田屋

寺田屋

現在の寺田屋は、鳥羽伏見の戦いで焼失した後に再建されたと言われていますが、どうなのでしょうか。

寺田屋の正面には、「史蹟寺田屋はま」の石碑があります。

現在は駐車場となっていますが、江戸時代には、ここで淀川から上ってきた三十石船の乗客が降りて寺田屋に宿泊したり、多くの積み荷が降ろされたりしたんでしょうね。

史蹟寺田屋はま

史蹟寺田屋はま

三十石船には、坂本竜馬も乗っていたはずです。

彼は寺田屋に何度も宿泊し、女将のお登勢によく世話になっていたそうですからね。

寺田屋のお庭に入ってみましょう。

寺田屋の庭

寺田屋の庭

建物内に入るには拝観料が必要ですが、お庭を見るだけなら特に拝観料は必要ないようです。

私がお庭を見ている間、ちらほらと拝観者の方たちが建物に入っていきましたよ。

お庭を見ていく人もいましたし、寺田屋は伏見観光に訪れたら、立ち寄りたくなるところなのでしょうね。

さて、寺田屋のお登勢は、坂本竜馬とお竜を結びつけたことでも知られています。

お庭には、お登勢明神が祀られており、現在は、将来の若き男女の守り神となっています。

お登勢明神

お登勢明神

お登勢明神の近くには、占の壺もあります。

占の壺

占の壺

受付でおみくじを引いて、この壺に軽く浮かしてその上に小銭を乗せます。

おみくじが早く沈むと願い事が早いと言われています。

なので、おみくじに500円玉を数枚乗せれば、すぐに願い事がかないそうですね。

坂本竜馬と寺田屋事件殉難者の碑

占の壺の近くには、坂本竜馬の忠魂碑が置かれていました。

通常、石碑は立っているものですが、竜馬の忠魂碑は寝かされています。

贈正四位坂本龍馬君忠魂碑

贈正四位坂本龍馬君忠魂碑

刻まれている文字を読もうと思いましたが、一番上の「贈正四位坂本龍馬君忠魂碑」と冒頭の「明治三十七年二月六日」くらいしか読めません。

読もうと思えば読めるのですが、時間がかかりそうなのでやめておきました。

坂本竜馬は、幕末に何度も寺田屋に宿泊しましたが、彼の宿泊中で最も大きな事件と言えば、薩長同盟締結後に伏見奉行所の役人たちに捕えられそうになったことでしょう。

この時、竜馬は親指を負傷したものの、薩摩藩に匿われ、後にお竜とともに鹿児島に新婚旅行に旅立っています。

お庭の奥には、「坂本龍馬先生」と刻まれた竜馬の像が立っています。

坂本龍馬先生

坂本龍馬先生

この竜馬はとても小さいです。

ミニ竜馬の後ろにも大きな石碑がありました。

こちらはしっかりと立っています。

上の方が三角になっているこの石碑は、どうやら寺田屋事件で命を落とした薩摩藩士9人に関するもののようです。

薩藩九烈士がどうのこうのと刻まれていますが、漢文なので、詳しい内容はわかりません。

寺田屋事件は、文久2年(1862年)に薩摩藩士だちが寺田屋で同士討ちをした事件です。

当時の薩摩藩は、まだ倒幕を考えておらず、先走った倒幕派の藩士たちが島津久光の命を帯びた同藩の討手に斬られてしまいました。

ちなみに石碑の上に刻まれた薩藩九烈士うんぬんの篆額(てんがく)は、熾仁親王(たるひとしんのう)のものです。

当時の熾仁親王ということは、14代将軍徳川家茂に嫁いだ和宮の婚約者だった有栖川宮熾仁親王のことなのでしょうね。

お庭の入り口近くにも、「伏見寺田屋殉難九烈士之碑」と刻まれた石碑が立っています。

伏見寺田屋殉難九烈士之碑

伏見寺田屋殉難九烈士之碑

この石碑の文字なら、現代人にも読めますね。

幕末の動乱を見てきた寺田屋。

そのお庭にいるだけで、いろいろと幕末の出来事を想像してしまいます。

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