京都市中京区の河原町二条に法雲寺というお寺が建っています。
法雲寺の境内には、縁切りで有名な菊野大明神が祀られており、それほど有名なお寺ではありませんが、隠れた人気スポットとなっています。
さて、この法雲寺の入り口に平成27年(2015年)7月に石碑が建立されました。
その石碑は、「久坂玄瑞 吉田稔麿 等寓居跡」を示すものです。
幕末の長州藩士ゆかりの地
下の写真に写っているのがその石碑です。
まだできて間もないため、汚れが全くと言っていいほどありません。
久坂玄瑞(くさかげんずい)も吉田稔麿(よしだとしまろ)も幕末史を語る上で、忘れてはならない人物です。
特に久坂玄瑞は、長州藩全体を倒幕へと向かわせたので、彼がいなければ明治維新は違ったものになっていたかもしれません。
石碑の近くには説明書も設置されています。
江戸時代初期から、ここより少し南の河原町御池に長州藩邸がありました。
そのため、幕末期には、多くの長州藩士がこの周囲に居住していました。
久坂玄瑞は、藩邸からほど近い木屋町御池付近に前原一誠、寺島忠三郎らと同居しており、また、桂小五郎もその近くに住んでいました。
そして、法雲寺も長州藩士の住いとして利用されます。
久坂玄瑞は、文久2年(1862年)7月に藩の中老閣の長井雅楽(ながいうた)の殺害を計画しましたが失敗し、家老の浦靭負(うらゆきえ)に自首します。
久坂玄瑞が、法雲寺に居住したのは、当寺で謹慎させるためでした。
他に寺島忠三郎らも、ともに謹慎しています。
吉田稔麿も法雲寺で謹慎しました。
彼は、万延元年(1860年)から亡命生活を送っており、世子毛利定広に自首したことで、久坂らとほぼ同じころに当寺で謹慎することになります。
志半ばでこの世を去る
久坂玄瑞と吉田稔麿は同じころに法雲寺で謹慎しましたが、亡くなったのもほぼ同時期でした。
元治元年(1864年)6月。
新撰組が長州系浪士たちを襲撃する池田屋事件が起こりました。
この事件では将来を嘱望された多くの志士が命を落とし、明治維新が1年遅れたと言われています。
その中には吉田稔麿もいました。
彼は、新撰組が池田屋に乗り込んできたとき、すぐに脱け出して長州藩邸に逃げたのですが、槍を持って池田屋に戻ります。
池田屋に舞い戻った吉田稔麿は、新撰組の沖田総司に斬られたとも伝えられていますし、会津藩兵に囲まれて闘死したとも伝えられています。
この池田屋事件の報復のために約1ヶ月後に長州藩兵が上洛します。
その中には久坂玄瑞もいました。
長州藩兵は、薩摩藩や会津藩を中心とした幕府軍と京都御所周辺で激突します。
これが蛤御門(はまぐりごもん)の変です。
長州藩兵は、幕府軍に敗れて京都から逃げ出します。
しかし、久坂玄瑞は寺島中三郎とともに鷹司邸で自害して果てました。
久坂玄瑞も吉田稔麿も、吉田松陰の松下村塾で学んだ秀才でした。
もしも、2人が明治維新まで生きていれば新政府の要職に就いていたことでしょう。
なお、法雲寺の詳細については以下のページを参考にしてみてください。