元弘3年(1333年)に鎌倉幕府が滅亡した後、元弘の変で常陸に島流しとされた万里小路藤房(までのこうじふじふさ)が、6月に京都に戻ってきました。
これから後醍醐天皇を中心とした政治が行われることに期待を持ちながら京都に戻ってきた藤房でしたが、すぐに護良親王(もりながしんのう)と足利高氏が、いがみ合っていることを知ります。
これは何とかしなければならないと考えた藤房は、すぐに足利高氏の屋敷へと向かいました。
護良親王が征夷大将軍になる
護良親王と足利高氏がいがみ合っているのは、足利高氏が幕府を開こうとする意図を護良親王が知ったからです。
鎌倉幕府を倒したばかりなのに、また武士中心の政治となったのでは、何のための倒幕だったのかわかりません。
だから、護良親王は、信貴山にたてこもり足利高氏を牽制していました。
両者の対立に不安を感じた藤房は、とにかく足利高氏を説得しなければならないと思ていましたが、いざ屋敷に赴いてみると、対応に出てきたのは、家臣の高師直(こうのもろなお)でした。
藤房は、高師直に後醍醐天皇は政治を武士と折半したり、天皇を退いた上皇や法皇が政務をとる院政が世の中の混乱を招く原因だと考えていることを述べ、公卿と武士が協力し合わなければならないと主張します。
しかし、高師直は、武士と公卿がいがみ合うのは、公家に問題があるからだと言います。
確かに鎌倉幕府を倒した後の公卿の傲慢さは目に余るものがあり、高師直の主張にも一理あります。
さらに公卿には武力がないので、武士が地方を統括しなければ、世の中が乱れるとまで高師直は言います。
結局、藤房の主張は高師直には聞き入れられず、何の進展もないまま、藤房は足利邸を後にしました。
それからしばらく経った6月13日に護良親王が征夷大将軍となります。足利高氏が幕府を開くという野望は、この時は叶いませんでした。
なお、この頃から、高氏は、後醍醐天皇より「尊」の字を賜って足利尊氏と名乗るようになります。
大内裏造営に反対するも聞き入れられず
護良親王が征夷大将軍となった後、武士の不満はさらに強くなっていきます。
その原因は、足利尊氏が討幕の際に諸国の武士に乱発した軍忠状にありました。尊氏は、武士たちに討幕が成功した暁には、諸国の土地を恩賞として与えると勝手に言いふらしていたのです。
軍忠状を持っている武士たちは、当然、約束された土地をもらえると思っていました。
しかし、公卿たちは、恩賞方から尊氏を除いたため、武士たちは約束の土地をもらうことができなくなりました。
公卿たちは、恩賞をもらうことができなかった武士たちは、尊氏への不満を募らすはずだと考えていましたが、実際にはそのようにはならず、不満は、後醍醐天皇や公卿に向かうことになりました。
恩賞方の長官を勤めていたのは、まだ若い公卿の洞院実世(とういんさねよ)でした。
ある日、高師直が洞院実世のもとを訪れます。
そして、尊氏が恩賞方からのぞかれたことに対する不満をぶちまけ、さらに護良親王を征夷大将軍からすぐにやめさせるように脅迫しました。
こういった経緯もあり、洞院実世は、恩賞方の長官を辞し、代わりに万里小路藤房がその任にあたることになりました。
藤房は、武士たちの不満を取り除くために公卿たちに贅沢な生活を改めるように忠告します。
そして、公卿と武士が協力し合って政治を行っていることを世の中に知らせるために後醍醐天皇の石清水行幸を実行しました。
行幸に際しては、公卿たちに派手な服装を禁じていましたが、しかし、浮かれている公卿たちの耳には届かず、まるで物見遊山にでも出かけるような服装で行幸に参列しました。
これを見た武士たちは、ますます不満を募らせます。
さらにまだ戦乱が治まって間もない時期にもかかわらず、後醍醐天皇が大内裏の造営を計画し、諸国の税負担を強化したことも、武士たちの不満を増長する要因となりました。
これでは、再び戦乱になってしまうと憂慮した藤房は、後醍醐天皇に大内裏の造営を中止するように諫言します。
そして、公卿たちがいったん職を辞し、領地を返上して、実力のあるものを諸国の地頭に命じるようにと主張しました。
しかし、藤房の言葉は後醍醐天皇には聞き入れられませんでした。
建武の新政に嫌気がさした万里小路藤房は、数日後に失踪します。
京都市上京区の相国寺で出家したと伝えられていますが、定かではありません。
護良親王の幽閉
万里小路藤房が失踪してしばらくたった建武元年(1334年)10月にさらなる事件が起こりました。
護良親王が、後醍醐天皇の命により捕えられたのです。
護良親王は、天皇から歌会の誘いを受け、御所へと向かいました。
しかし、歌会というのは真っ赤な嘘で、護良親王が御所に到着すると、結城親光によって捕縛され、その後、鎌倉の土牢に幽閉されました。
後醍醐天皇は、足利尊氏と護良親王がいがみ合っている状況を見かねて、このような厳しい決断をしたのです。
ところが、この天皇の決断が裏目に出ます。
建武2年7月に北条家の残党たちが中先代の乱を起こし、鎌倉を襲撃しました。
その頃、鎌倉には足利尊氏の弟の直義がいましたが、反乱を鎮めることができませんでした。
そして、直義は、鎌倉から脱出する途中、混乱に乗じて、土牢に幽閉されていた護良親王を暗殺したのです。
足利直義の護良親王暗殺により、後醍醐天皇と足利尊氏が対立することになり、世の中は、再び戦乱となりました。