法然が袈裟を掛けた松・光明寺

長岡京市の粟生(あお)は、浄土宗の開祖である法然が初めて念仏を説いた地といわれています。

この地には、建久9年(1198年)に法然の弟子の蓮生が、念仏三昧堂を建てたのが始まりとされるお寺が建っています。

そのお寺は、光明寺(こうみょうじ)といいます。

金戒光明寺と比較

光明寺という名が付く浄土宗のお寺と言えば、京都市左京区の金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)が有名です。

この金戒光明寺と区別するため、光明寺は粟生光明寺とも呼ばれています。

両者は同じ浄土宗ということもあって、同じ名が付いた建物などが境内にあります

総門

総門

総門をくぐって緩やかな石段を上っていくと、正面に御影堂(みえどう)が現れます。

金戒光明寺にも同じ名の建物があります。

御影堂

御影堂

御影堂には、法然が建永の法難の際に弟子に渡した自作の「張り子の御影」が祀られています。

御影堂の隣に建っているのは阿弥陀堂です。

阿弥陀堂

阿弥陀堂

金戒光明寺も御影堂の隣に阿弥陀堂が建っています。

光明寺の境内で興味深く思ったのが、下の写真に写っている法然上人袈裟掛けの松です。

法然上人袈裟掛けの松

法然上人袈裟掛けの松

比叡山を降りた法然は、粟生で初めて念仏を説いたとき、しばらくこの地に留まろうと思って袈裟を松に掛けました。

その時の松は、境内の裏山にあったそうですが、後に株分けされて境内に移されたそうです。

それが、上の写真の法然上人袈裟掛けの松です。

金戒光明寺にも、これに似た松があります。

粟生光明寺を建てた蓮生は、もともと武士だったのですが、法然に弟子入りして金戒光明寺で出家しました。

この時、来ていた鎧を境内の松に掛けたそうです。

その松は、熊谷直実鎧掛けの松と呼ばれています。

そう、蓮生とは、一ノ谷の戦いで平敦盛を討ち取った熊谷直実のことです。

自分の子供と同じくらいの年齢の敦盛を討ち取らなければならなかった直実は、戦いの後もそのことが頭から離れなかったそうです。

そして、長年、苦悶した後、直実は法然を訪ね出家したのです。

これについては以前に以下の過去記事で紹介しましたので、ご覧になってください。

光明寺の名の由来

蓮生が建てた念仏三昧堂が光明寺という名に変わったのは、安貞2年(1228年)に法然の廟所がこの地に定まった時です。

もともと法然の廟所は、京都市東山区にあったのですが、叡山の僧がそれを暴こうとしたため、弟子たちが当地で法然の遺体を荼毘(だび)に付しました。

すると、石棺から光明が発したので、念仏三昧堂を光明寺と変えたと伝えられています。

長岡京市に観光で訪れた時は、光明寺にも参拝して法然上人袈裟掛けの松をご覧になってください。

ちなみに光明寺は秋の紅葉がきれいですよ。

なお、光明寺の詳細については以下のページを参考にしてみてください。