応仁の乱の西軍の本陣が置かれた山名宗全邸宅跡

京都は、長い歴史の中で何度も戦乱によって焼失しています。

中でも室町時代に起こった応仁の乱(1467年)は、11年に渡って東軍と西軍が戦い、京都の町は壊滅的な状態となりました。

被災地域は、京都の3分の1にも及んだと伝えられています。

現在の京都市上京区の堀川上立売(ほりかわかみだちうり)の辺りには、山名町という地名が残っています。

この山名町には、西軍を率いた山名宗全の邸宅があったことで知られています。

民家に挟まれた山名宗全の邸宅跡の石碑

堀川上立売から南に歩くとマンションが建っています。

このマンションの南端に「山名宗全邸趾」の石柱があります。

石柱

石柱

さらにこの石柱から西に50メートルほど進むと昔ながらの民家が2軒建っており、その間にひっそりと山名宗全の邸宅跡を示す石碑と京都市の案内板が置かれています。

石碑

石碑

応仁の乱の時、西軍の本陣は山名宗全の邸宅に置かれました。

一方の細川勝元率いる東軍は、本陣を花の御所に置きました。

現在の地下鉄今出川駅近くで、大聖寺というお寺の中に花の御所跡の石碑があります。

両軍の本陣は、わずか500メートルほどしか離れていません。

下の地図の左の方のENEOSのマークが西軍本陣、右の方の大聖寺がある辺りが東軍本陣です。

地図で確認すると両軍がどれだけ近くに陣を敷いていたかがわかりますね。

結局、応仁の乱の決着がつく前に山名宗全も細川勝元もこの世を去ります。

そして、乱の影響は全国へと広がり、100年にも及ぶ戦国時代へと突入していったのです。

京文化の波及と西陣織の発展

応仁の乱は、戦いが全国に広がったという負の影響もありましたが、その反面、京都の文化が各地に伝わっていったという良い影響もありました。

例えば、現在の山口市は、京都から公家や僧侶、学者が乱から逃れるために移住した地で、西の京と呼ばれるほど文化が発展しました。

また、京都では、西軍の本陣が置かれた辺りは、西陣と呼ばれるようになり、この地で織られた織物は西陣織として発展していきました。

もともと西陣織は、応仁の乱以前からあり、その歴史は古墳時代にまで遡ると伝えられています。

平安時代には、現在の西陣に朝廷が高級織物を生産させるための織部司(おりべのつかさ)いう役所を置きました。

その後、応仁の乱から逃れるために職工たちは京都から出て行きましたが、乱が治まると再び京都に戻って織物業を再開し、西陣織も発展していったそうです。

応仁の乱は、京都を焼け野原にしてしまいましたが、その一方で、文化の発展に貢献したという面もあったんですね。

なお、西陣織の詳細については、下記WEBサイトをご覧になってください。

また、応仁の乱については、以下の過去記事で紹介しています。