隣り合って建つ西行庵と芭蕉堂

京都市東山区の円山公園と高台寺の中間に平安時代の文化人と江戸時代の文化人に縁のある建物が2軒建っています。

平安時代の文化人とは西行法師のことで、彼と関係のある建物は西行庵といいます。

その隣には、江戸時代の著名な俳人である松尾芭蕉と関係のある芭蕉堂が建っています。

西行庵

西行は、平安時代末期の歌人で、新古今和歌集の代表的歌人として知られていますね。

もともとは、佐藤義清(さとうのりきよ)という武士です。

彼は、鳥羽法皇の北面の武士として仕えていましたが、保延6年(1140年)に23歳の若さで突然出家してしまいました。

出家する際、4歳の娘がすり寄ってきたところを庭先に突き落としたと伝えられています。

その後、西行となった佐藤義清は、諸国を行脚しながら歌を詠んだそうです。

西行庵がある地は、彼が蔡華園院(さいかおういん)を営んだ地であり、また、終焉の地であると伝えられています。

明治時代には荒廃していましたが、明治26年(1893年)に富岡鉄斎が寄付を募るための勧進文を書き、当時の京都市長の内貴甚三郎(ないきじんざぶろう)達の尽力によって再建されたそうです。

西行庵

西行庵

茅葺の屋根が風情を感じさせます。

この茅葺の屋根を持つ母屋は、浄妙庵と呼ばれ、大徳寺塔頭(たっちゅう)の真珠庵の別院を移したものだそうです。

また、茶室の皆如庵(かいにょあん)は、北野の久我(こが)別邸から移されたもので、桃山時代の名席と伝えられています。

残念ながら、西行庵を外から眺めただけなので、皆如庵は見れませんでした。

芭蕉堂

西行庵の隣の芭蕉堂の茅葺屋根も風情を感じさせます。

芭蕉堂

芭蕉堂

松尾芭蕉は、旅をしながら俳句を詠んだ江戸時代の俳人で、奥の細道は、彼の作品として有名です。

芭蕉は、諸国を旅し自然を友とした西行の生き方に感銘し、彼を心の師として慕っていたと伝えられています。

柴の庵と 聞くはくやしき 名なれども よにこのもしき 住居なりけり

上の歌はこの地で西行が詠んだもので、芭蕉はこの地に訪れた時、この歌を踏まえて以下の句を詠んだそうです。

しばの戸の 月やそのまま あみだ坊

芭蕉堂は、上の句を生かして加賀の俳人の高桑闌更(たかくわらんこう)が営んだものです。

堂内には、蕉門十哲のひとりである森川許六が刻んだ松尾芭蕉の木造が安置されています。

私は、堂内に入ったことがないので、この木造を見たことはありません。

時代は違いますが、諸国を旅した2人の文化人と縁のある建物が隣り合っているというのは興味深いですね。

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