上京区一覧

帰ってきて欲しくない人には戻橋を通らさない

京都市上京区の堀川に一条戻橋という橋が架かっています。 この橋には、様々な伝説があります。 有名なところでは、平安時代に文章博士であった三好清行(みよしきよつら)の葬儀の行列が、戻橋を渡っているときにその子の浄蔵が紀州熊野から帰ってきて棺に泣きすがっていると、清行が一時的に蘇生して父子の対面が実現したというものがあります。 戻橋という名は、この言い伝えが由来になって付けられたものだと言われていますね。

後白河上皇と二条天皇が幽閉された平安宮一本御書所跡

二条城の北は、平安時代、平安宮の内裏があった場所です。 その南東には一本御書所(いっぽんごしょどころ)と呼ばれていた施設がありました。 一本御書所は、天暦2年(948年)頃から貞信公記(ていしんこうき)などの文献に登場するようになります。 その役割は、世間に流布する書籍を一部ずつ書き写して保管していたとされています。 他に一本書と呼ばれる1冊しかない本を納めさせて保管していたという説もありますね。 歴史的事件としては、平治の乱(1159年)と深く関係しています。

地獄の閻魔大王が祀られている2つのお寺

「嘘をついたら地獄の閻魔さまに舌を抜かれますよ」 子供の時にこんなことを大人から言われたことがある方は多いはず。 だから、閻魔さまは、とても怖い存在だという印象があるでしょう。私もそう思っています。 そして、なんとなく悪そうな印象もあるので、閻魔さまは仏さまが祀られているお寺にはいないと思い込んでしまいますが、実は、京都には閻魔さまを祀ったお寺が上京区と東山区の2ヶ所にあります。 上京区のお寺は引接寺(いんじょうじ)で、東山区のお寺は六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)です。

御霊神社に桓武天皇と深い関係があった人々が多く祀られているのはなぜ?

京都市上京区に上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)という神社が建っています。 また、上御霊神社から南東に15分ほど歩くと、下御霊神社という神社も建っています。 両社は、ともに「御霊」という文字が社名に入っているので、創建された目的は同じです。 その目的とは、怨霊の祟りを鎮めるためです。 平安時代、非業の死を遂げた人々が怨霊となって、疫病や洪水などの災いをもたらすと考えられていました。 そして、こういった災いから、京都を守るためには、怨霊を神社に祀って御霊に変えれば良いとされていました。 この信仰を御霊信仰といいます。 上御霊神社も下御霊神社も、祭神として...

石田三成の片腕として働いた島左近の墓がある立本寺

関ヶ原の戦いで、西軍を率いて徳川家康と戦った石田三成。 石田三成は、所領が少なかったため、毛利輝元を大将にして諸将を味方につけ天下分け目の戦いに挑みます。 もともと石田三成は、軍事よりも政治面で能力を発揮した、いわゆる秀才でした。 そんな石田三成が、当時、日本一の戦上手とされていた徳川家康と戦おうとしたのには、きっと、家康に勝てるという自信があったからでしょう。 その自信となっていたもののひとつが、おそらく、彼の家老の島左近の存在だったはずです。

本阿弥光悦が前半生を過ごした京都市上京区・本阿弥光悦京屋敷跡

江戸時代前期の芸術家の本阿弥光悦ゆかりのお寺が、京都市北区の鷹峯(たかがみね)にあります。 そのお寺は光悦寺です。 本阿弥光悦は、近衛信尹(このえのぶただ)、松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)とともに寛永の三筆と称されるほど書がうまかったということですが、他にも陶芸や蒔絵にも才能を発揮したことで知られています。 そういった芸術の才能が育まれたのは、やはり、鷹峯といった景観の美しい地で生まれ育ったからなのかなと思ってしまいますが、実は、彼が鷹峯に移ったのは、58歳の時で、若いころは、現在の京都市上京区に住んでいました。

密集して立つ平安宮内裏跡の史跡

現在の京都市上京区は、平安時代に平安宮内裏があった場所です。 二条城の北の辺りですね。 平安宮内裏跡とされる辺りを散策していると、それを示す石碑がたくさんあります。 どの石碑の近くにも、簡単な説明書が設置されているので、そこが平安時代にどういう場所だったのかを知ることができます。 以前に私も、この辺りを散策し、いくつか石碑を見て来たので、今回の記事ではそれらを紹介します。

御陵衛士の間者の粛清・京都守護職屋敷跡

慶応3年(1867年)3月。 新撰組の参謀であった伊東甲子太郎(いとうかしたろう)が仲間とともに御陵衛士(ごりょうえじ)を結成しました。 これは、事実上の新撰組脱退だったのですが、伊東は局長の近藤勇(こんどういさみ)に自分たちは脱退ではなく分離しただけだと主張します。 そして、薩長と親密に交わり、その機密を入手して新撰組の活動に役立てると言って、自分たちの脱退をうまく正当化しました。 ただ、伊東は、自分に味方する者すべてを脱退させたわけではなく、スパイとして、佐野七五三助(さのしめのすけ)、茨木司(いばらきつかさ)、中村五郎、富永十郎など10名の同志を新撰組に残しておき...

サッカーの必勝祈願で参拝したい白峯神宮の地主社

京都市上京区に建つ白峯神宮は、蹴鞠の神さまが祀られているということから、球技 、特にサッカーの上達にご利益があると言われています。 そのため、ワールドカップやオリンピックなど、サッカーの大会が行われるときには、日本代表の必勝を願って参拝される方も多いですね。 ただ、白峯神宮に参拝した時には、本殿だけでなく末社の地主社(じしゅしゃ)にも、しっかりとお参りしておかないと、そのご利益を十分に授かることはできないでしょう。

阿弥陀寺の織田信長と信忠父子の墓

京都市上京区の寺町通に建つ阿弥陀寺。 ここは、歴史ファンの方なら、ご存知かもしれませんが、織田信長と嫡男の信忠のお墓があるお寺です。 織田信長は、天正10年(1582年)6月2日に家臣の明智光秀に宿泊していた本能寺を襲撃され、天下統一を目前にしてこの世を去りました。 燃え盛る本能寺の中で自刃した織田信長の遺体は、その後、見つからなかったと伝えられていますね。