人臣最初の摂政となった藤原良房の邸宅があった染殿第跡

京都市上京区にある京都御苑は、江戸時代以前は公卿の邸宅がたくさん建ち並んでいました。

現在では、京都御苑を代表する建物は、京都御所や仙洞御所などが一部残っているだけです。

公卿の邸宅があった地には、それを示す立札や石碑がありますが、建物はほとんど残っていません。

京都御苑内の北東には、かつて藤原良房の邸宅「染殿第」がありましたが、こちらも他の邸宅跡と同じく建物は残っていませんね。

9歳で即位した清和天皇

藤原良房は、平安時代の貴族で、人臣最初の摂政(せっしょう)となった人物として知られています。

彼は、文徳天皇に仕えており、自分の娘の明子(あきらけいこ)を天皇の后として嫁がせました。

そして、明子は惟仁親王(これひとしんのう)を出産し、生後8ヶ月にもかかわらず皇太子になりました。

惟仁親王には兄がいたのですが、それでも皇太子となったのには、その背景に藤原良房の権力があったことは容易に想像できます。

惟仁親王は、父の文徳天皇が崩御した後、9歳で即位し清和天皇となります。

当然、9歳の幼さでは政治がわからないので、清和天皇を補佐する者が必要です。

それが摂政で、天皇の祖父の藤原良房がその役職に就きました。

藤原良房が摂政になれるほどに権力を持っていたのは、清和天皇が即位する16年前の承和9年(842年)に起こった承和の変で、藤原氏の対立勢力の追い落としに成功したからです。

その後の藤原氏の繁栄の基礎は、藤原良房が築いたものなんですね。

染殿井

下の写真に写っているのは、京都御苑の北東にある藤原良房の邸宅跡であった染殿第の跡地です。

染殿井

染殿井

現在では、染殿井と呼ばれる古井戸が残っているだけです。

染殿第は、藤原良房の娘の明子の御所としても使われましたし、清和天皇が譲位後に清和院となって住んだところでもあります。

ちなみに京都御苑の東にある清和院御門の名は、これが由来となっています。

藤原氏繁栄の基礎を築いた藤原良房の邸宅跡に古井戸ひとつしか残っていないというのは、寂しいものを感じます。

京都御苑には、多くの木々が植えられており都会のオアシスとなっていますが、歴史破壊だという批判もあります。

確かに染殿井を見ていると、そういった批判の声が出る理由がわからなくもないですね。

なお、染殿第の跡地にある井戸から水を汲むことはできませんが、近くに建つ梨木神社(なしのきじんじゃ)で染井を汲むことができます。

参拝者なら誰でも汲めますので、染殿第の跡地を見た後は梨木神社にお参りをして名水を汲んで帰ると良いでしょう。

その際は、ペットボトルなど水を汲める容器を持っていくのを忘れずに。

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