上京区一覧

京都平安ホテルの池泉回遊式庭園を鑑賞

京都御所の秋の一般公開の後、西隣にある京都平安ホテルに立ち寄りました。 10月30日から11月16日までの期間、「府庁界隈 まちかどミュージアム」が開催されており、京都府庁近辺では様々な文化財を鑑賞できます。 拝観料が有料のところもあれば、無料のところもあります。 京都平安ホテルも、「府庁界隈 まちかどミュージアム」に指定されている施設であり、中庭の池泉回遊式庭園が無料で鑑賞できるんですよね。 これは見ておくべきでしょう。

京都御所一般公開2014年秋

10月30日から京都市上京区の京都御所で秋の一般公開が始まりました。 今回は11月5日までの1週間です。 私は春と秋の2回行われる一般公開には必ず行っており、2014年秋も当然のように初日から京都御所を訪れました。

京都御苑は桜か紅葉見るならどっち?

京都市上京区で最も有名な観光名所と言ってもいいのが京都御苑。 京都御苑は春は桜、秋は紅葉がきれいです。 他にも、都会の真ん中にあるとは思えないほど、多くの草花を見ることができ、四季折々の風景を楽しむことができます。 でも、やっぱり、春の桜と秋の紅葉が最も美しいですね。 では、桜と紅葉のどちらがおすすめなのでしょうか。 わかりました。私が京都御苑では桜と紅葉のどちらを見るべきか決めさせてもらいます。

藤原氏全盛期に紫式部が源氏物語を書けたのはなぜか?

源氏物語は、平安時代に紫式部が書いた小説です。 この小説は、世界で最初に書かれた長編小説として文学界では大変重要な意味を持っています。 源氏物語の主人公は光源氏で、彼の女性遍歴や出世していく様子が物語の中で描かれています。 ところで、紫式部は、なぜ小説の題名を源氏物語としたのでしょうか。 おそらく、主人公が光源氏だから、そのような題名にしたのだと思いますが、私が述べたいのはそういうことではなく、源氏をなぜ主人公にしたのかということです。

帰ってきて欲しくない人には戻橋を通らさない

京都市上京区の堀川に一条戻橋という橋が架かっています。 この橋には、様々な伝説があります。 有名なところでは、平安時代に文章博士であった三好清行(みよしきよつら)の葬儀の行列が、戻橋を渡っているときにその子の浄蔵が紀州熊野から帰ってきて棺に泣きすがっていると、清行が一時的に蘇生して父子の対面が実現したというものがあります。 戻橋という名は、この言い伝えが由来になって付けられたものだと言われていますね。

後白河上皇と二条天皇が幽閉された平安宮一本御書所跡

二条城の北は、平安時代、平安宮の内裏があった場所です。 その南東には一本御書所(いっぽんごしょどころ)と呼ばれていた施設がありました。 一本御書所は、天暦2年(948年)頃から貞信公記(ていしんこうき)などの文献に登場するようになります。 その役割は、世間に流布する書籍を一部ずつ書き写して保管していたとされています。 他に一本書と呼ばれる1冊しかない本を納めさせて保管していたという説もありますね。 歴史的事件としては、平治の乱(1159年)と深く関係しています。

地獄の閻魔大王が祀られている2つのお寺

「嘘をついたら地獄の閻魔さまに舌を抜かれますよ」 子供の時にこんなことを大人から言われたことがある方は多いはず。 だから、閻魔さまは、とても怖い存在だという印象があるでしょう。私もそう思っています。 そして、なんとなく悪そうな印象もあるので、閻魔さまは仏さまが祀られているお寺にはいないと思い込んでしまいますが、実は、京都には閻魔さまを祀ったお寺が上京区と東山区の2ヶ所にあります。 上京区のお寺は引接寺(いんじょうじ)で、東山区のお寺は六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)です。

御霊神社に桓武天皇と深い関係があった人々が多く祀られているのはなぜ?

京都市上京区に上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)という神社が建っています。 また、上御霊神社から南東に15分ほど歩くと、下御霊神社という神社も建っています。 両社は、ともに「御霊」という文字が社名に入っているので、創建された目的は同じです。 その目的とは、怨霊の祟りを鎮めるためです。 平安時代、非業の死を遂げた人々が怨霊となって、疫病や洪水などの災いをもたらすと考えられていました。 そして、こういった災いから、京都を守るためには、怨霊を神社に祀って御霊に変えれば良いとされていました。 この信仰を御霊信仰といいます。 上御霊神社も下御霊神社も、祭神として...

石田三成の片腕として働いた島左近の墓がある立本寺

関ヶ原の戦いで、西軍を率いて徳川家康と戦った石田三成。 石田三成は、所領が少なかったため、毛利輝元を大将にして諸将を味方につけ天下分け目の戦いに挑みます。 もともと石田三成は、軍事よりも政治面で能力を発揮した、いわゆる秀才でした。 そんな石田三成が、当時、日本一の戦上手とされていた徳川家康と戦おうとしたのには、きっと、家康に勝てるという自信があったからでしょう。 その自信となっていたもののひとつが、おそらく、彼の家老の島左近の存在だったはずです。