慶長伏見大地震で活躍した加藤清正
文禄5年(1596年)閏7月13日。 京都を大きな地震が襲いました。 特に伏見で被害が大きく、豊臣秀吉が築いた伏見城も大きな被害を受けました。 城内にいた中居下女が500人も亡くなったと伝えられていますから、伏見城の被害は相当なものだったのでしょう。
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文禄5年(1596年)閏7月13日。 京都を大きな地震が襲いました。 特に伏見で被害が大きく、豊臣秀吉が築いた伏見城も大きな被害を受けました。 城内にいた中居下女が500人も亡くなったと伝えられていますから、伏見城の被害は相当なものだったのでしょう。
天正15年(1587年)に豊臣秀吉が北野大茶会を盛大に催しました。 お茶好きなら身分に関係なく誰でも参加できたそうですから、秀吉の太っ腹さがよくわかります。 この北野大茶会で、副席として用いられた茶室が、現在も京都市東山区の建仁寺に残っています。
天正元年(1573年)。 織田信長が力を持ち始めた頃、彼があっけなく命を落とすことを予言した人物がいました。 その人物の名は、安国寺恵瓊(あんこくじえけい)。 「信長之代、五年、三年は持たるべく候。明年辺は公家などに成さるべく候かと見及び申候。左候て後、高ころびに、あおのけに転ばれ候ずると見え申候。藤吉郎さりとてはの者にて候」 安国寺恵瓊は、織田信長の死を予言し、その後、信長の家臣に過ぎない木下藤吉郎(豊臣秀吉)が天下をとることを言い当てたのですから、戦国時代最高の予言者だと言えるでしょう。
豊臣秀吉は、天下統一を成し遂げると京都を囲む土塁を構築しました。 この土塁は、御土居(おどい)と呼ばれており、現在でも北野天満宮にその遺跡が残っています。 京都は洛中と呼ばれていましたが、その範囲は豊臣秀吉が築いた御土居で仕切られた範囲を差します。 そして、当時の洛中の東の端が現在の河原町通でした。
天正10年(1582年)6月2日。 この日は、織田信長が京都の本能寺で明智光秀によって自害に追い込まれた本能寺の変が起こった日です。 本能寺は、現在も京都市中京区の寺町御池に残っていますが、事件が起きた時とは違う場所にあります。 でも、境内には、織田信長のお墓があり、参拝者は誰でもお参りできます。
京都市左京区に建つ真如堂の墓地に東陽坊長盛(とうようぼうちょうせい)のお墓があります。 東陽坊長盛は、聞き馴染みのない名かもしれませんが、安土桃山時代の茶人で、真如堂東陽坊の住職になった人物です。
安土桃山時代を代表する画家に海北友松(かいほうゆうしょう)がいます。 海北友松は、天文2年(1533年)に近江の浅井家に仕える海北綱親の子として生まれました。
安土桃山時代に明智光秀に仕えた斉藤利三(さいとうとしみつ)は、山崎の戦いで明智軍が羽柴秀吉に敗れた後、捕えられ六条河原で処刑されました。 その後、斎藤利光の遺体は京都市左京区の真如堂の墓地に埋葬されます。
聚楽第(じゅらくだい/じゅらくてい)は、豊臣秀吉が京都の住いとして造営した建物です。 秀吉は、関白に就任した翌年の天正14年(1586年)から聚楽第の造営に着手します。 天正11年から大坂城の築城も始まっていたので、秀吉は一度に2ヶ所の大工事を実施したんですね。
福岡県の民謡で、酒席には欠かせない名歌として地元の人々に親しまれている黒田節。 黒田節は、貝原益軒(かいばらえきけん)が著した「黒田家臣伝」の母里但馬伝(もりたじまでん)に登場する逸話が元になっています。 その逸話が生まれた場所は現在の京都市伏見区で、御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ)が建つ辺りです。