安土桃山時代一覧

五條天神宮の境内を南北に貫いた通り

京都市下京区の四条烏丸から南西に少し歩いたあたりに五條天神宮という神社が建っています。 五條天神宮は、義経記(ぎけいき)によると、牛若丸と弁慶が出会った神社ということになっているので、歴史好きの方ならご存知かもしれませんね。 現在は、周囲をビルに囲まれて境内は狭くなっていますが、昔は広い寺域を有していたそうです。 でも、その広い敷地が都市開発に邪魔になったことから、境内を南北に貫く通りが造られました。

石田三成の片腕として働いた島左近の墓がある立本寺

関ヶ原の戦いで、西軍を率いて徳川家康と戦った石田三成。 石田三成は、所領が少なかったため、毛利輝元を大将にして諸将を味方につけ天下分け目の戦いに挑みます。 もともと石田三成は、軍事よりも政治面で能力を発揮した、いわゆる秀才でした。 そんな石田三成が、当時、日本一の戦上手とされていた徳川家康と戦おうとしたのには、きっと、家康に勝てるという自信があったからでしょう。 その自信となっていたもののひとつが、おそらく、彼の家老の島左近の存在だったはずです。

本殿を囲む信長塀・石清水八幡宮

京都府八幡市の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)は、古来より朝廷や武家の崇敬を受けてきた神社です。 そのため、石清水八幡宮には、歴史的に有名な人物から寄進された文化財が数多くあります。 例えば、本殿をぐるっと囲む塀も安土桃山時代に織田信長が寄進したものなんですよね。

三好三人衆の襲撃から足利義昭を救った僧侶の言葉・本圀寺の変

永禄12年(1569年)1月5日の早朝。 京都の六条にあった本圀寺を三好長逸(みよしながやす)、三好政康、岩成友通の三好三人衆が攻撃しました。 これを本圀寺の変とか六条合戦といいます。 本圀寺は、織田信長が室町幕府15代将軍に擁立したばかりの足利義昭が仮御所としていました。

阿弥陀寺の織田信長と信忠父子の墓

京都市上京区の寺町通に建つ阿弥陀寺。 ここは、歴史ファンの方なら、ご存知かもしれませんが、織田信長と嫡男の信忠のお墓があるお寺です。 織田信長は、天正10年(1582年)6月2日に家臣の明智光秀に宿泊していた本能寺を襲撃され、天下統一を目前にしてこの世を去りました。 燃え盛る本能寺の中で自刃した織田信長の遺体は、その後、見つからなかったと伝えられていますね。

企業の駐輪場の一角にある南蛮寺跡の石碑

京都市中京区の姥柳町(うばやなぎちょう)に呉服・和雑貨などの卸商社である和光株式会社があります。 卸商社なので、一般消費者とは直接関係することはあまりなさそうです。 ある日、和光株式会社の前を通りかかったところ、その駐輪場に石碑が置かれているのに気づきました。 何の石碑か気になって近づいたところ、それは、南蛮寺跡を示すものでした。

京都市山科区にある佐治城碑

その昔、今の滋賀県甲賀郡に佐治氏という豪族が住んでいました。 居城としていたのは佐治城で、代々この城を守ってきました。 しかし、天正13年(1585年)に佐治城は落城、城とともに佐治氏も滅亡しました。

戦国大名の名が残る京都の町名

京都には、不思議な町名がいくつもあります。 どうしてこのような変わった町名にしているのかと思ってしまいますが、調べてみれば、いろいろと理由があるんですよね。 京都市上京区にも変わった町名がいくつもあります。 如水町(にょすいちょう)、甲斐守町(かいのかみちょう)などですが、これらの町名は、豊臣秀吉がこの辺りに造営した聚楽第と関係があります。