京阪祇園四条駅の四条大橋側の出口の側に女性の像が立っています。
その女性の像は、出雲の阿国(おくに)。
阿国の像がここに立っていることに何か理由があるのでしょうか?
歌舞伎の創始者だった出雲の阿国
阿国が生まれた時期は、定かではないのですが、出雲の阿国と呼ばれたことから、一説によると出雲大社の巫女であったとも言われています。
阿国は、関ヶ原の戦いが終わった頃に京都の北野天満宮で興行をしたという記録が残っていますが、この時の興行で踊ったのが「ややこ踊り」と呼ばれる踊りでした。
このややこ踊りは歌舞伎踊りとも呼ばれ、現在の歌舞伎の始まりとされています。
流行すると現れる偽者
阿国の興行は、当時の京都の人々に好評で、阿国の真似をして踊る者まで現れました。
中には、自分が出雲の阿国だと言う者までいました。
そんな偽者が出るほど有名になった出雲の阿国ですが、慶長13年(1608年)には四条河原ではじめて女歌舞伎が行われます。
しかし、この女歌舞伎は出雲の阿国が行ったものではなく、当時の遊女たちによる踊りでした。
本物の出雲の阿国も四条河原で歌舞伎踊りを踊ったとも言われていますが、実際は阿国の偽物だった可能性もあり、なんとも言えないというのが現実のようです。
女歌舞伎は、幕府も文化として認めていましたが、後に風紀を乱すという理由から女歌舞伎は禁止されます。そのため、男性の役者が女性役をする女形が演じられるようになり、これが現在の歌舞伎に発展していったのです。
その後、阿国はどうなったのか?
京都で歌舞伎踊りを広めた阿国でしたが、その後はどうなったのでしょうか?
実は、阿国のその後については正確な記録が残っていません。
一説によると出雲に戻り尼となったとも伝えられていますが、定かではありません。また亡くなった歳についてもよくわかっておらず、お墓も出雲大社近くと京都の大徳寺高桐院にあり、その人生には多くの謎が残っています。
出雲の阿国の像が立っているあたりには、南座が建っています。
江戸時代には、7つの芝居小屋が京都にありましたが、火災などの理由で5つの芝居小屋が姿を消し、明治には北と南の芝居小屋だけが残りました。
しかし、北の芝居小屋も明治26年(1893年)に廃業し、現在、京都に残っているのは南座だけです。
出雲の阿国が四条河原で歌舞伎踊りを踊ったかどうかはわかりませんが、この地で歌舞伎が流行し、現在も南座で歌舞伎が行われていることを考えると、歌舞伎と深い縁がある場所と言えますね。