建武3年(1336年)1月。
京都に攻め込んできた足利尊氏軍を後醍醐天皇方が追い返すことに成功します。
これにより、一時的に東坂本に避難していた後醍醐天皇は、再び京都の花山院に戻ることができました。
京都を追い出された足利尊氏は、西へ撤退。
後醍醐天皇に仕える楠木正成は、すかさず追い討ちをかけようとしましたが、天皇方は、勝ちに浮かれて足利軍を追撃しようとしませんでした。
公卿たちの思惑
足利尊氏を京都から追い出すことに成功したのは、楠木正成の軍略によるところが大きく、普通に考えると、公卿たちは、その戦功を讃えるために正成に多くの恩賞を与えるはずです。
ところが、公卿たちは正成ではなく、新田義貞を厚遇しました。
先の戦いでは、それほど活躍しなかった新田義貞を厚遇したのは、楠木正成にあまりに多くの恩賞を与えると、正成に力をつけさせてしまうと考えたからです。
公卿たちには、味方の武士たちの力関係の均衡を保ち、ひとりに大きな力がかたよらないようにしようという魂胆があったのです。
新田義貞には、左中将の位が贈られ、今後は、新田義貞が後醍醐天皇方の総大将となることが決まります。
さらに新田義貞は、後醍醐天皇から勾当内侍(こうとうのないし)という女性も賜りました。
勾当内侍は、一条行房の娘あるいは妹といわれており、とても美しい女性だったと伝えられています。
この勾当内侍と新田義貞との出会いが、以後の彼の運命を大きく変えることになります。
足利尊氏を追撃
勾当内侍を賜った新田義貞は、彼女にうつつを抜かし、一向に出陣して足利軍を追い討ちする気配がありません。
この機会を逃しては、再び足利軍が勢力を盛り返してくることを懸念した楠木正成は、自軍だけで追撃をします。
しかし、楠木軍の追撃だけでは足利軍に大打撃を与えることができません。
そのうち、摂津国の豊原河原(てしまがわら)まで退却した足利軍は勢力を盛り返し、20万にまで兵の数が膨れ上がっていました。
新田義貞がようやく出陣したのは、京都から足利尊氏を追い落としてから1週間ほど過ぎた2月5日でした。
軍勢を回復した足利軍を知り、さすがに新田義貞も自分の出陣の遅れに気づきます。
その遅れを取り返そうと、2月7日に新田義貞は北畠顕家とともに足利軍を攻撃しましたが苦戦。
この状況を打開するために楠木正成が足利軍の背後をついたことで、形勢は逆転し、足利軍は退却をはじめました。
2月8日。
瀬戸内海から大内義弘と厚東氏実(こうとううじざね)の船団が足利尊氏の援軍として到着しました。
足利尊氏は兵庫県の湊川に陣を敷き、援軍は小清水に布陣して、新田義貞を大将とする後醍醐天皇方の軍に備えます。
しかし、楠木勢が小清水に攻撃を開始すると、あっけなく援軍としてやってきた大内と厚東の軍は退却。
さすがに今回の戦いに勝つ見込みがないと悟った足利尊氏は自決を覚悟しました。
しかし、赤松円心がそれを静止し、九州に落ちのびて態勢を整えるようにと助言します。
この助言を聞き入れた尊氏は、急いで船に乗り、味方の兵を見捨てて海路、九州へと逃げていきました。
尊氏が逃げる姿を見た足利軍の兵も急いで船に乗ろうとしましたが、尊氏は、とにかくこの場からすぐに逃げなければならないと焦っていたため、味方が船に乗ろうとするのも構わず、ひたすら西にむかって船を進めていきます。
これを見た楠木正成も、すぐに船に乗って足利軍を追いかけようとしますが、総大将の新田義貞が、それを静止します。
京都の公卿たちから、都が手薄になっているので、すぐに帰ってくるようにという指示があったからです。
また、義貞自身も早く都に帰って勾当内侍に会いたいという思いがあったため、足利尊氏を追撃することなく、京都に引き返しました。
滝口寺の勾当内侍供養塔
京都市右京区の嵯峨野に滝口寺というお寺があります。
この辺りには、以前、往生院というお寺がありました。
新田義貞の妻となった勾当内侍は、義貞が北陸に出陣した時、それを追っていったと伝えられています。
そして、義貞の戦死を知った勾当内侍は、琵琶湖に身を投げたとされます。
一説によれば、往生院で出家し、義貞の菩提を弔ったともいわれています。
現在の滝口寺には、勾当内侍の供養塔があります。
もしも、後醍醐天皇がもっと後で、勾当内侍を新田義貞の妻にしていれば、足利尊氏は九州に逃れることができず、その後の歴史も変わっていたかもしれませんね。
なお、滝口寺の詳細については以下のページを参考にしてみてください。