幕末に長州藩が京都御所を攻撃する蛤御門(はまぐりごもん)の変が起こり、京都市中では多くの家屋が焼失しました。
さらに明治になって首都が東京に遷ったことにより、京都はこのままさびれていくだけかと思われました。
しかし、長州藩士の槇村正直(まきむらまさなお)が、明治元年(1868年)より権大参事(ごんのだいさんじ)となったことで京都の復興が進み、明治5年には第1回京都博覧会が催され、京都に活気が戻り始めました。
建仁寺、知恩院、西本願寺を会場とする
槇村正直は京都の殖産興業に力を入れ、政府から貸与された勧業基立金や下付された産業基立金を活用し、農産物、織物や陶器などの加工品の改良に力を入れるとともに製糸場や女紅場(にょこうば)なども設立します。
同時に明治4年に京都博覧会も開催しました。
会場となったのは京都市下京区の西本願寺で、会期は10月10日から11月11日までの1ヶ月間でしたが、1万1千人もの人が来場し大変盛り上がりました。
その後、京都博覧会社が設立され、翌年、同社主催による第1回京都博覧会が行われることになります。
会場として選ばれたのは、東山区の建仁寺と知恩院、そして、前年と同じく西本願寺の3ヶ所です。
いずれの寺院も、広々とした境内を持っているので、博覧会の会場に適していたのでしょう。
岩波新書の『京都の歴史を歩く』によれば、建仁寺では、飲食物、金銀細工、陶器・漆器などが出品されたとのこと。

建仁寺
現在の建仁寺は、境内は広いものの、中央にたくさんの松が植えられていて立ち入りできなくなっており、人が歩けるのは境内の3分の2くらいです。
明治も今と同じような景観だったのかはわかりませんが、建仁寺が会場に選ばれたのは、多くの入場者を収容できると判断されたからなのでしょう。
建仁寺から北東に約7分歩いた知恩院は、建仁寺より広大です。
御影堂(みえいどう)付近は特に広々としており、様々な展示物を置くのに都合が良さそうですね。

知恩院
知恩院では、呉服、生糸、武具、甲冑などが観覧できました。
京都駅から西に約10分歩いた場所に建つ西本願寺の境内の写真がこちら。

西本願寺
阿弥陀堂と御影堂(ごえいどう)という大きな建物が建っていますが、その正面は大変広くなっており、3ヶ所の会場の中では、最も博覧会に適していたのではないでしょうか。
西本願寺では、農産物や鉱物が展示されました。
西本願寺を会場にするのなら東本願寺も同じくらいの広さを持っているので会場にしたら良かったのではないかと考えてしまいますが、第1回京都博覧会が行われた頃の東本願寺は、蛤御門の変で多くの建物を焼失しており会場にしたくてもできない状況でしたから、候補に挙がらなかったのではないでしょうか。
第1回京都博覧会では、初めて一般の外国人の入京が許可されています。
ほんの10年くらい前は、天誅だ攘夷(じょうい)だと騒がしかった京都の街に外国人が入って来るとは想像できなかったでしょうね。
3月10日から5月31日まで開催された第1回京都博覧会は、日本人の入場者が約3万人、外国人の入場者が770人でした。
ところで、外国人旅行者はいったいどこに宿泊したのでしょうか。
それは、知恩院の南隣にある円山公園です。
第1回京都博覧会に合わせて円山公園にホテルが造られたんですね。
その後も、京都博覧会は昭和3年(1928年)まで毎年のように開催され、京都の復興から近代化に大きく貢献します。
都をどりもここから始まった
京都の春の風物詩となっている都をどりも、第1回京都博覧会がきっかけで始まります。
万亭九代目当主の杉浦治郎右衞門が創始し、京都博覧会の附博覧としてヨーロッパのレビューを擬した芸妓や舞妓の舞が披露されたのが都をどりの起源です。
万亭は、現在は一力亭となっており、朱色の壁が四条花見小路の象徴のようになっていますね。
芸妓や舞妓は江戸時代の印象が強いですが、都をどりが近代的な雰囲気を持っているのは、京都博覧会から始まったからなのでしょう。