平安時代から残る醍醐寺の五重塔、平等院の鳳凰堂、宇治上神社の本殿

京都に都が遷されたのは延暦13年(794年)です。

でも、平安時代から現代までずっと残っている建物は少ないです。

その少ない平安時代から残る建物ですが、京都の南の伏見区と宇治市に行けば見られます。

醍醐寺、平等院、宇治上神社には、約1000年前に建立された建物が現存しています。

醍醐寺の五重塔

伏見区にある醍醐寺の境内に建つ五重塔は、京都市内で最も古い五重塔で、建立されたのは延喜4年(907年)頃です。

実に1100年以上前に建てられた建築物が今も残っているんですね。

醍醐寺の五重塔

醍醐寺の五重塔

境内の開けた場所にぽつんと建つ五重塔は、他の建物よりも風格があります。

醍醐寺は、山の上と下に大伽藍が整えられていたのですが、応仁の乱(1467年)で、ほとんどの建物を焼失してしまいます。

唯一、五重塔だけが焼失を免れたというのですから、非常に運の強い建物ですね。

その後、豊臣秀吉により醍醐寺は復興を果たし、境内にはたくさんの桜が植えられました。

秀吉が催した醍醐の花見の舞台であり、今も、春になると桜を愛でに大勢の旅行者や観光客が訪れます。

先ほどの写真に写っているように五重塔付近は、木々が少ないのですが、やや離れた場所に植えられている桜越しに五重塔を眺めることができます。

桜と五重塔

桜と五重塔

春に醍醐寺に訪れた際は、桜と一緒に五重塔を眺めてみてください。

平等院の鳳凰堂

宇治市の平等院の鳳凰堂は、10円玉に描かれていることで知られていますが、こちらも平安時代から残る建物です。

正式には阿弥陀堂と呼ばれる鳳凰堂の建立時期は、天喜元年(1053年)です。

平等院の鳳凰堂

平等院の鳳凰堂

平等院は、藤原道長の別荘を子の頼通が寺としたものです。

京都の歴史は戦乱の歴史でもあり、平等院も数々の戦乱に巻き込まれてきました。

治承4年(1180年)には、以仁王が源頼政とともに平家打倒のため挙兵し、平等院近くの宇治川が戦場となりました。

平等院が戦場にならなくて良かったなと思うかもしれませんが、そんなことはなく、源頼政は平等院で自刃しており、そして、この時に多くの建物を失っています。

また、南北朝の争乱では、楠木正成が平等院一帯を焼き払っています。

さらに醍醐寺と同じく、応仁の乱の兵火に遭い、散々な目に遭っています。

それでも、鳳凰堂だけは何度も戦火を潜り抜け、現在まで存続しているのですから、これは阿弥陀さまのご加護としか言いようがないでしょう。

そのような苦難に耐えてきた歴史を知ると、夜の鳳凰堂の輝きがより美しく感じられますね。

夜の鳳凰堂

夜の鳳凰堂

宇治上神社の本殿

平等院の鎮守社である宇治上神社の本殿は、現存する最古の神社建築で、詳細な建立時期はわからないものの年輪年代法により1060年代の建立と考えられています。

平等院の鳳凰堂の建立とほとんど同じ時期ですね。

本殿は覆屋に囲まれていますが、外からでも中を覗くことができます

宇治上神社の本殿

宇治上神社の本殿

庇が前にのびた一間社流造の社殿が3つ建っており、右に菟道稚郎子(うじのわきいらつこのみこと)、真ん中に応神天皇、左に仁徳天皇が祀られています。

境内はそれほど広くなく、目立つ建物は、本殿とその前に建つ拝殿くらいですが、木々を背に境内が設けられている姿に自然に対する畏敬の念のようなものを感じます。

石段と本殿

石段と本殿

宇治上神社は、平等院から近いので、源平合戦、南北朝の争乱、応仁の乱の兵火に巻き込まれていそうなのですが、そのような話は聞きません。

平等院は宇治川の西、宇治上神社は宇治川の東にあり、その立地条件が幸いしたのでしょうか

いずれにしても、本殿が現在まで無事であったことは喜ばしいことです。

醍醐寺、平等院、宇治上神社は、どれも世界遺産に登録されており、また、この記事で紹介した3つの建物は国宝にも指定されています。

平安時代から残る建物ですから、世界遺産になっても国宝になっても不思議ではないですね。

醍醐寺、平等院、宇治上神社は、比較的近くなので、1日で見て廻ることができますよ。

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