六波羅蜜寺の境内にある六波羅探題府の石碑

京都市東山区の京阪電車の清水五条駅から少し東に六波羅蜜寺が建っています。

この辺りは、平安時代や鎌倉時代には六波羅と呼ばれた一帯です。

歴史的には、平安時代末期に平家の邸宅が建ち並んだ六波羅第があった場所としてよく知られていますね。

また、鎌倉時代には、六波羅探題が置かれた場所でもあります。

承久の乱の後に設置された六波羅探題

六波羅探題は、鎌倉幕府の出先機関で、朝廷を監視するために設置されました。

鎌倉幕府ができて間もないころは、武士と朝廷が政治を行っている状況。

朝廷からすると、これまで自分たちが政治の実権を握っていたのに武士がそれを奪った形になるのでおもしろくありません。

そういったことが原因で、後鳥羽上皇が起こしたのが承久の乱(1221年)だったのですが、北条泰時によってあっけなく鎮められてしまいます。

この時から武家政治の基盤が強化され、江戸時代の終わりまで政治の実権は武士が握ることになりました。

しかし、再び朝廷が鎌倉幕府に対して矢を向けることもあるだろうから、幕府としては彼らの行動に注意しておかなければなりません。

そこで幕府が設置したのが六波羅探題だったんですね。

足利高氏らによって滅ぼされる

六波羅探題は、鎌倉時代末期にはよく活躍しました。

後醍醐天皇が何度も倒幕の計画を立てましたが、そのたびに六波羅探題が素早く察知し、その動きを封じてきました。

しかしながら、後醍醐天皇の倒幕計画に加担する者たちが多く、味方であった足利高氏や赤松円心らに攻撃され滅ぼされました

現在、六波羅蜜寺の境内には、六波羅探題が付近にあったことを示す石碑が立っています。

六波羅蜜寺の本堂

六波羅蜜寺の本堂

場所は、本堂の左前で、門をくぐった右手になります。

背の低い石柱なので、参拝者の多くは、これに気づいていないのではないでしょうか。

六波羅探題府の石碑

六波羅探題府の石碑

石碑には、「此附近 平氏六波羅第 六波羅探題府」と刻まれています。

平家は源氏によって滅ぼされ、六波羅探題は後醍醐天皇に従った者たちによって滅ぼされました。

栄華を極めた者が、六波羅に拠点を置くと誰かにそれを奪われてしまうのでしょうか。

六波羅の近くには、冥土へと通じる六道の辻があります。

あまり縁起の良さそうな場所には思えないのですが、平家も鎌倉幕府も重要な拠点をこの地に置いたのには、それなりの理由があったのでしょうね。

政治的に重要な機関の設置は、六波羅を避けた方が良さそうです。

なお、六波羅蜜寺の詳細については以下のページを参考にしてみてください。