慶応3年(1867年)11月15日。
この日、京都市中京区の近江屋で坂本竜馬と中岡慎太郎が暗殺されました。
暗殺したのは京都見廻組の今井信郎というのが通説となっていますが、当時は、2人を暗殺したのは新撰組と思われていました。
海援隊と紀州藩の船舶が衝突
坂本と中岡の暗殺が新撰組と疑われたのは、下手人が「こなくそ」と叫んで斬りかかったのを中岡が聞いていたからです。
「こなくそ」は伊予の方言で、新撰組隊士の原田左之助も伊予出身。
だから新撰組が暗殺したと考えられたのです。
これはあまりにも短絡的な発想ですが、当時はそう信じられていました。
その後しばらく経ってから、さらに近江屋事件の黒幕がいるという噂が広まります。
その黒幕とは、紀州藩の公用方の三浦休太郎です。
ところで、なぜ紀州藩がこんなところで登場するのでしょうか。
2人の暗殺から約半年遡った4月19日。
この日、坂本率いる海援隊の船舶の「いろは丸」と紀州藩の明光丸が衝突しました。
衝突は、いろは丸に明光丸が追突してきたことが原因です。
ぶつけられたいろは丸は、そのまま海の藻屑となってしまいました。
この事件は、5月22日に長崎で土佐藩と紀州藩が交渉し、最終的に紀州藩が8万5千両の賠償金を払うことで決着。
賠償金を払わされた紀州藩としては何とも苦々しい事件で、坂本竜馬を恨むのは当然と思えます。
だから、紀州藩の三浦休太郎が新撰組に依頼して坂本を暗殺したという噂が流れたのです。
新撰組が三浦休太郎を護衛
暗殺の黒幕が三浦だという噂を聞きつけた土佐藩士達は、坂本と中岡の敵をとるために三浦の襲撃を計画します。
一方の紀州藩も三浦が土佐藩士達に狙われていることを察知し、彼の警備を強化します。
そのために藩主の徳川茂承(とくがわもちつぐ)が、新撰組に護衛を依頼しました。
三浦と同じく坂本と中岡の暗殺を疑われている新撰組が護衛することになるとは、何とも皮肉なことです。
三浦は、京都の紀州藩邸と宿泊している天満屋との往復の際に新撰組に護衛されていたので、この時に土佐藩士達に狙われることはありませんでした。
また、夜も新撰組は、護衛のために天満屋に同宿していました。
土佐藩士達が天満屋を襲撃
新撰組が三浦を護衛し始めてしばらく経った12月7日の夜。
遂に土佐藩士達が天満屋に宿泊している三浦を襲撃します。
襲撃したのは土佐藩士達に十津川郷士の中井庄五郎らを加えた16名。
一方、天満屋で三浦を警護するために同宿していたのは、斎藤一、大石鍬次郎ら新撰組10人ほどと紀州藩士数名。
彼らは酒宴を開き、新撰組隊士達も相当に飲んで酔っ払っていました。
その時、ドタドタと騒がしい足音がして、数人の男たちが部屋に乱入し、そのうちの一人が三浦に声をかけました。
「三浦氏はそこもとか」
その質問に三浦が答えると、男は刀を抜き、すかさず彼の顔に斬りつけました。
しかし、それと同時に新撰組隊士の斎藤一が、男の右腕を斬り落とし、三浦を安全な場所に逃がします。
右腕を斬られたのは中井庄五郎。
その後、新撰組隊士が部屋の明かりを消し、暗闇の中で乱戦が繰り広げられます。
結局、土佐藩士達は三浦を討ち取れずに退却、中井庄五郎が斬り死にしました。
一方の新撰組も宮川信吉が命を落としています。
この事件は後に天満屋騒動と呼ばれるようになります。三浦休太郎と新撰組にとっては完全な冤罪事件ですね。
ちなみに天満屋事件の土佐藩士達のリーダーは海援隊の陸奥陽之助、後に外務大臣となる陸奥宗光です。
また、命を狙われた三浦休太郎は、明治になって貴族院議員、東京府知事となっています。
現在、京都市下京区の西本願寺から東に5分ほど歩いた「油小路通花屋町下る」には、天満屋跡の石碑が置かれています。
石碑の正面には「勤王之士 従五位 中井正五郎殉難之地」と刻まれています。
また、側面には、「維新之史蹟 慶応三年十二月七日 天満屋騒動之跡」と刻まれています。
なお、この石碑は、街中のマンションの駐車場の入り口付近に置かれているので、観に行く際は住人の方の迷惑にならないように注意してください。