京都市下京区の六条堀川は、源頼義、義家、為義、為朝、義経など、源氏の邸宅の六条堀川邸があった場所として知られています。
元暦2年(1185年)10月。
この六条堀川邸で、源義経が襲撃されるという事件が起こりました。
梶原景時の讒言
元暦2年3月24日に壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼした義経は、平家の棟梁の平宗盛や建礼門院を捕え、4月24日に京都に帰還しました。
もちろん、義経は鎌倉にいる兄の頼朝に平家追討の報告をします。
義経は、頼朝が平家追討を喜び、「よくやった」という返事をくれるものと思っていましたが、待てど暮らせど、一向に頼朝からは返事がきません。
それもそのはず。
なんと頼朝に義経の悪口を吹き込んでいた人物がいたのです。
その人物とは、平家追討に義経の行動を監視する軍監として同行していた梶原景時です。
景時は、平家追討の間、こそこそと頼朝に義経の悪口を吹き込んで、義経の印象を悪くしていました。
壇ノ浦の戦い後も、義経は独裁的だとか、平家を追討できたのは義経の手柄だと威張っているとか、根も葉もないことを頼朝に吹き込んでいました。
景時の報告を受けた頼朝は、「これではいかん」と思い、義経は鎌倉の一御家人に過ぎないので、今後は義経に従う必要はないと諸将に伝えました。
無実を訴えた腰越状
頼朝が何者かに自分の悪口を吹き込まれ印象を悪くしているという情報は、義経の耳にも届きました。
そこで、義経はこの年の5月に自分は頼朝に刃向かう意思はないと伝えるために、平宗盛と清宗の父子を連れて鎌倉に向かいました。
鎌倉まであともう少しの金洗坂(かなあらいざか)に到着した時、頼朝の使いとして北条時政が義経のもとにやってきました。
時政は義経に「宗盛父子を渡して、腰越(こしごえ)で待つように」と伝えます。
頼朝に会って、直々に身の潔白を証明しようと考えていた義経にとって、この命令は予想外でしたが、従うしかありません。
もちろん、頼朝は、最初から義経と会う気はありませんでした。
また、義経が、頼朝に許しを得ずに朝廷から検非違使(けびいし)に任命されていたことも鎌倉に入ることができなかった理由のひとつです。
頼朝は、以前に勝手に朝廷から官位を賜ることを禁止しており、無断で官位を賜った場合、東国に入ることを禁止していたのです。
腰越に滞在中、義経は、頼朝の誤解を解くために自分には野心がないことを長々と書き綴った手紙を大江広元に渡し、それを頼朝に読んでほしいと頼みました。世に言う腰越状です。
しかし、この腰越状も頼朝に無視され、義経は宗盛父子とともに京都に戻り、彼らを処刑するように命じられます。
義経は、宗盛父子の助命も嘆願していましたが、これも無視されたのです。
元暦2年6月21日。
義経は、京都に戻る途中、近江篠原で宗盛父子を処刑しました。
更なる処罰
頼朝に会えずに落胆して帰京した義経に更なる追い打ちが待っていました。
それは、義経の所領24個所を没収するというものです。
このような厳しい処分が下ったのは、何者かが頼朝に義経の悪口を吹き込んだからでした。
その内容は、頼朝に会うことができなかった義経が、「鎌倉に不満がある者は義経に味方せよ」と都に帰る途中、所々でふれ回ったというものでした。
その後、義経は心労がたたったのか、病気にかかります。
そんな時、鎌倉から梶原景時の子で、宇治川の戦いで先陣争いを演じた景季(かげすえ)が義経を訪ねてきます。
景季は、頼朝の叔父の源行家が謀反を企てているから追討するようにという鎌倉からの命を義経に伝えました。
しかし、義経は、自分は今は病気で動けないことから、回復次第、なんとかすると景季に伝えます。
この義経の言葉を聞いて、景季は鎌倉へと帰って行きました。
土佐坊昌俊の六条堀川邸襲撃
さて、鎌倉に戻った梶原景季は、頼朝に義経が病で寝込んでいてすぐに行家の追討をできない旨を報告しました。
しかし、この報告を側で聞いていた父の景時が、「それは仮病に違いない」と頼朝に意見を述べます。
景時の意見を聞いた頼朝は、遂に義経追討を決心。
居並ぶ御家人に向かって、義経を討ち取りに京都に行く者はいないかと言いました。
さすがに義経とともに平家と戦ってきた御家人たちの中には、進んで追討に名乗りを上げる者はいません。
しばらくの沈黙の後、一人の御家人が義経追討に名乗りを上げました。
その御家人の名は、土佐坊昌俊(とさのぼうしょうしゅん)。
土佐坊は、すぐに京都に向かいます。
そして、10月17日に六条堀川邸の義経を見舞いに訪れました。
その目的は偵察のためです。
土佐坊は、義経に簡単な挨拶をしながら、六条堀川邸の中を見まわし、邸内にはほとんど人がいないことに気付きました。
「これだけ人が少なければ、夜襲をすれば簡単に義経を討ち取れる」
そう考えた土佐坊は、すぐに六条堀川邸から立ち去り、夜襲の準備を始めます。
そして、その夜。
土佐坊は、義経を討ち取るべく六条堀川邸に夜襲をかけました。
しかし、義経はすでに土佐坊が夜襲を仕掛けてくることを察知しており、土佐坊の兵たちを簡単に追い払ってしまいました。
その後、土佐坊は捕えられ、頼朝の命を受けて義経を襲ったことを自白し、処刑されました。
そして後日、義経と行家に頼朝追討の院宣が後白河法皇から降されました。
現在、西本願寺から堀川通を北に少し歩いた場所に源氏の六条堀川邸内にあったと伝えられている左女牛井(さめがい)の跡があります。
左女牛井は、京都の名水として平安時代から知られており、室町時代には茶人の村田珠光も愛用したと言われています。
しかし、戦時中に堀川通の拡幅工事によって左女牛井は消滅しました。
なお、左女牛井之跡の地図については下記WEBサイトに掲載されています。
義経の逃避行
頼朝追討の院宣を受けた義経は、一旦、船で九州に立ち退くことにしましたが、暴風雨に遭い難破してしまいます。
さらに災難が義経を襲います。
頼朝追討の院宣を発した後白河法皇が、今度は義経と行家追討の院宣を頼朝に降したのです。
これにより、義経は追われる身となりました。
義経が逃げ回っている間に叔父の行家は、文治2年(1186年)5月に和泉国で捕えられ処刑されました。
その翌年、義経は、2年間の逃避行の末、藤原秀衡を頼って奥州平泉に落ち延びましたが、秀衡が亡くなるとその子の泰衡に裏切られ、文治3年の閏4月30日、衣川で自害しました。
この辺りのことについては、「今日は何の日?徒然日記」さんの下記記事で、わかりやすい言葉遣いで解説されていますので、ご覧になってください。
また、藤原泰衡については、実は義経を裏切っていなかったという興味深い説を「Electronic Journal」さんが下記記事で紹介しています。こちらも併せてご覧になってみてください。
衣川の戦いは偽戦である2012年4月11日追記:左記ページは閉鎖しています。