京都市伏見区には、以前は水運の拠点だったことから、港がありました。
その港は伏見港と呼ばれ、現在の京阪電車中書島駅付近は港町として賑わっていました。
しかし、今では伏見港は埋め立てられ、公園となっています。
埋め立てられたということは、港が必要なくなったということですが、その理由は一体何だったのでしょうか。
そこで、今回の記事では、伏見港の発展と衰退の歴史について紹介したいと思います。
豊臣秀吉の伏見城築城
伏見港の歴史は、安土桃山時代まで遡ります。
文禄3年(1594年)、時の権力者であった豊臣秀吉は、伏見城の建設を行いました。
それと同時に行われたのが、宇治川と巨椋池(おぐらいけ)の分離です。
以前は、宇治川は巨椋池に注いでいましたが、秀吉は、両者を分離し、宇治川の流れを北に迂回させて、城の南側に付け替えました。
そして、伏見城の西に外堀となる濠川を造ります。
この濠川と宇治川が合流している地点に造られたのが、大阪と伏見を結ぶ水運の拠点となる伏見港だったのです。
高瀬川の開削で発展
江戸時代に入ると伏見港は、次第に発展していきます。
その発展に貢献したのが角倉了以(すみのくらりょうい)による高瀬川の開削です。
高瀬川は、京都市中心部の鴨川の西を流れる小さな川で、江戸時代初期にできました。
高瀬川ができたことで、伏見から京都市中心部に物資を送ることが可能となり、それが、伏見港発展の基礎を築きました。
また、幕府が伏見を荷物を運ぶための馬の乗り継ぎ場所である伝馬所としたことや伏見が京都、大阪、奈良への陸路の拠点として整備されたことも伏見港を発展させていきます。
そして、江戸時代後期には、伏見は人口4万人の日本最大規模の内陸港湾都市にまで発展していました。
天保年間(1830-1844年)には、坂本竜馬が身を寄せたことで知られる寺田屋などの旅籠屋(はたごや)は、伏見に42軒もあったそうです。
近代化で水運の利用が減少
しかし、江戸時代に大いに栄えた伏見港も明治時代に入ると衰退していきます。
その理由は、明治10年(1877年)に神戸と京都の間に鉄道が開通したからです。
明治時代中期には、琵琶湖疎水ができたことで、水運が息を吹き返します。
日本海から琵琶湖を経由して物資は関西方面へと運ばれ、また大阪方面からは、石炭が淀川を遡って伏見や京都へと運ばれました。
しかし、その後は、大洪水による被害もありましたが、物流に鉄道と道路が利用されることが多くなったため、水運の利用は減少していきます。
そして、昭和38年(1963年)に泊地が埋め立てられ、伏見港公園が誕生したのです。
現在の伏見港跡を散策
現在、伏見港があった辺りには、港のイメージはほとんど残っていません。
港のイメージといえば、下の写真に写っている伏見みなと橋近くと十石舟乗り場くらいでしょうか。
十石舟は、今でも乗ることができます。
詳細については、以下のWEBサイトでご確認ください。
十石舟・三十石船運行予定|まちづくり会社 伏見夢工房|
2012年9月9日追記:上記会社は2012年6月30日に解散しました。
そして、伏見港があった場所は、完全に公園に変わっています。
伏見港公園には体育館やプールもあります。
現在の伏見港公園を見ると、ここに港があったとは想像できません。
でも、中書島駅を北に歩いて行くと酒蔵が多くあり、この付近が港の酒場として賑わっていたことを伺わせます。