平家が都を落ちた後、入京した木曽義仲は、法住寺殿を焼き打ちし、後白河法皇を五条に幽閉しました。
これによって義仲が時の権力者になったかに思えましたが、西の平家、裏切り者の叔父の源行家など、義仲にとって邪魔な存在は消えてはいませんでした。
それどころか、鎌倉の源頼朝が、弟の範頼と義経を木曽義仲討伐のために京都に向かわせていたのです。
瀬田と宇治からの挟み撃ち
寿永3年(1184年)1月。
木曽義仲討伐軍の主力を形成する大手軍の範頼は、滋賀県の瀬田から京都へと向かいます。
一方の義経は、木曽軍の背後を攻撃するための搦手軍(からめてぐん)を率いて、京都の南の宇治へと向かいました。
この範頼と義経の兄弟を迎え撃つのは、木曽四天王。
瀬田の守りは、今井兼平。
宇治の守りは、根井小弥太(ねのいのこやた)と楯親忠(たてのちかただ)。
もう一人の四天王の樋口兼光は、河内石川城に源行家を攻撃しに向かいました。
範頼と義経は、木曽軍を挟み撃ちにする作戦ですが、南の宇治から攻める義経の搦手軍は、流れの速い宇治川を渡らなければ、京都に攻め込むことができません。
宇治川
現在の宇治川は、ダムから水が放流されると激流となります。
放流が行われなくても流れが速いため、橋を使わずに渡るのは危険です。
おそらく、平安時代の宇治川も現在のように川幅が広い大きな川だったでしょうから、泳いで渡るのは困難だったに違いありません。
ところが義経は、宇治川を橋を使わずに対岸まで泳いで渡ることにしたのです。
2頭の名馬、生唼と磨墨
宇治川の戦いで活躍するのが2頭の名馬です。
1頭の名は生唼(いけずき)、もう1頭の名は磨墨(するすみ)と言います。
この2頭は、源頼朝が所有していた馬で、彼が所有する数ある名馬の中でも特に優れていました。
木曽義仲討伐の前に家臣の梶原景季(かじわらかげすえ)が、先陣を勤めたいので、生唼を自分に与えてほしいと頼朝に願い出ました。
しかし、頼朝は、弟の範頼にも与えなかった生唼を景季に与えることはできないと断ります。そして、代わりに磨墨を景季に与えました。
その翌朝、今度は佐々木高綱が生唼を欲しいと頼朝に願い出ます。
当然、頼朝はそれを拒みました。
それでも高綱は、「自分は近江国出身で、宇治川のことをよくわかっているのに景季に先陣を譲っては地元の者達に顔向けできない」と頼朝を説得し、遂に生唼を賜りました。
そして、頼朝は、もしも景季がこのことを知ったらまた揉めることになると思ったので、高綱にうまくごまかすように指示しました。
先陣は景季か、それとも高綱か
義経の陣中に生唼がいることに気付いた景季は、その所有者がだれなのか探しました。
そして、高綱が所有していることを知り、景季は、彼になぜ生唼がここにいるのかを問いただしました。
すると高綱は、「どんなに生唼を所望しても頼朝さまが拒むので、勝手に盗んできた」と景季に答えました。
これを聞いた景季は、苦笑いするしかありません。
1月20日。
いよいよ義経軍と木曽軍が宇治川で開戦。
生唼に騎乗する佐々木高綱が宇治川を渡っていきます。
それを見た磨墨騎乗の梶原景季が先陣を渡すまいと高綱を追いかけます。
両者激しく先陣を争い、とうとう磨墨の猛追で、景季が高綱を追い抜きました。
しかし、高綱も負けてはいません。景季に向かって、磨墨の腹帯が緩んでいると言います。
高綱の忠告を聞いた景季は、腹帯を締め直そうとしましたが、全く緩んでいません。
そう、高綱は嘘をついたのです。
この嘘が功を奏し、佐々木高綱は見事先陣を飾ったのでした。
現在、宇治公園には宇治川の戦いでの先陣争いの故事に因んだ宇治川先陣之碑が置かれています。
この石碑は、昭和6年(1931年)に造られたものです。
木曽義仲の最期
宇治川の戦いは、義経軍の勝利に終わりました。
瀬田も範頼の大手軍の攻撃に今井兼平が守り切れず、木曽軍は壊滅状態となります。
義仲は、後白河法皇を連れて北陸へと逃げようとしましたが、時すでに遅く、周囲は敵だらけ。
何度となく敵に囲まれましたが、そのたびに戦い戦い逃げ続けます。
しかし、滋賀県大津市の粟津ヶ原で遂に敵の矢に当たって討ち死にしました。
木曽四天王も、今井兼平、根井小弥太、楯親忠が戦死。
樋口兼光は、義仲が討たれたことを知り、義経軍に降伏しましたが、法住寺殿焼き打ちを行ったことが原因で、後日処刑されました。
また、義仲の妻で女武者の巴御前は、源頼朝に捕えられましたが、後に出家しています。