前回の記事では、京都の熊野三山を紹介しました。
その熊野三山のひとつである新熊野神社(いまくまのじんじゃ)は、能楽の大成者である世阿弥と縁があることで知られています。
そこで、今回は世阿弥と新熊野神社を簡単に紹介したいと思います。
足利義満に気に入られた世阿弥
文中3年(北朝の応安7年/1374年)、観世清次が猿楽結崎座を率いて、新熊野神社で猿楽能を奉納しました。
この時、猿楽能を観覧したのが室町幕府3代将軍の足利義満です。
義満は、猿楽能に非常に関心を持ち、特に当時12歳だった藤若丸の舞に魅了されたそうです。
そこで、義満は、その親子を同朋衆(将軍のために雑務や芸能にあたった人々)に加え、父を観阿弥、子を世阿弥と名乗らせたのです。
新熊野神社の猿楽能は、今熊野勧進猿楽と呼ばれ、境内には「能」と刻まれた記念碑が置かれています。
この「能」の字は、世阿弥自筆の著書・花鏡の中の字を採ったものです。
世阿弥と義満との関係はこの頃に築かれたもので、世阿弥は、以後は義満の援助を受け、父・観阿弥の後を継ぎ、猿楽の芸術性を高めていったのです。
一転、苦労の連続に襲われる世阿弥
一見、順風満帆に見える世阿弥の人生ですが、応永15年(1408年)に義満が死去した後に苦難が訪れます。
4代将軍に就いたのは、父・義満と不仲だった義持でした。
世阿弥は後ろ盾を失い、それとともに猿楽能も衰退していきました。
その後、世阿弥は家督を子の元雅に譲ります。
時は流れ、室町幕府も6代将軍の義教の時代となりましたが、さらに世阿弥に不幸が訪れます。
将軍義教は、世阿弥達に弾圧を加え、仙洞御所での演能を禁止したのです。
そして、数年後に元雅が何者かの手によって殺害されてしまい、世阿弥は後継者を失ってしまいました。
世阿弥の不幸はさらに続き、永享6年(1434年)には、義教によって佐渡へ島流しにされてしまいます。この時、世阿弥はすでに70歳を超えていました。
年齢を考えると、世阿弥は佐渡で晩年を終えることになりそうでしたが、嘉吉元年(1441年)に転機が訪れます。
なんと、赤松満祐が、能を観覧中の義教を殺害したのです。世に言う嘉吉の変ですね。
この後、世阿弥は罪を許されて京に戻り余生を過ごしました。
世阿弥というと、能を大成した人物として歴史の教科書で紹介されており、一見華やかな人生を送ったように思われますが、実は度重なる苦難に耐える人生だったようですね。
なお、世阿弥と新熊野神社については、下記のブログでも紹介されていますので、ご覧ください。こちらのブログでは、能の記念碑の横に刻まれた文字が掲載されています。実物は、非常に読みにくいので助かりますね。