京都に関係する人物一覧

春日局の菩提寺・麟祥院

江戸幕府を開いたのは徳川家康ですが、幕府の基盤が安定したのは3代将軍の家光の頃とされています。 家光は2代将軍秀忠の次男だったのですが、長男が早世したため幼い頃から世継ぎに決められていました。 その徳川家光を育てたのは、乳母の春日局(かすがのつぼね)でした。

慶長伏見大地震で活躍した加藤清正

文禄5年(1596年)閏7月13日。 京都を大きな地震が襲いました。 特に伏見で被害が大きく、豊臣秀吉が築いた伏見城も大きな被害を受けました。 城内にいた中居下女が500人も亡くなったと伝えられていますから、伏見城の被害は相当なものだったのでしょう。

真如堂の藹山自叙碑

幕末から明治時代にかけて活躍した画家に谷口藹山(たにぐちあいざん)がいます。 藹山の生まれは越中国新川郡鉾ノ木村で、名を貞二といいました。 幼少の頃から絵が好きで、18歳で江戸に出て谷文晁のもとに入門し文齋と号しましたが、すぐに梁川星巌(やながわせいがん)のすすめで高久藹崖(たかくあいがん)の門下となって藹山と号しました。

真如堂の小林君之碑

京都市左京区の真如堂には、いくつか石碑があります。 それらの碑文を見ても、何を書いているのか全くわかりません。 でも、石碑の近くには、説明書が設置されているので、それを読むと、石碑の意味が理解できます。 本堂の南側にある小林君之碑(おばやしくんのひ)も、最初は何の石碑かまったくわからなかったのですが、お寺が用意している説明書のおかげでその内容がわかりました。

織田信長の急死を予言した安国寺恵瓊の首塚がある建仁寺

天正元年(1573年)。 織田信長が力を持ち始めた頃、彼があっけなく命を落とすことを予言した人物がいました。 その人物の名は、安国寺恵瓊(あんこくじえけい)。 「信長之代、五年、三年は持たるべく候。明年辺は公家などに成さるべく候かと見及び申候。左候て後、高ころびに、あおのけに転ばれ候ずると見え申候。藤吉郎さりとてはの者にて候」 安国寺恵瓊は、織田信長の死を予言し、その後、信長の家臣に過ぎない木下藤吉郎(豊臣秀吉)が天下をとることを言い当てたのですから、戦国時代最高の予言者だと言えるでしょう。

後藤顕乗の墓石が叡山電車の市原駅にある

江戸時代に京都には三大長者と称される家がありました。 高瀬川の開削を行ったことで知られる角倉了以(すみのくらりょうい)を輩出した角倉家、呉服で巨万の富を得た茶屋家、そして、金工界に絶大な勢力をふるった後藤家が、その三大長者です。 後藤家は、室町時代に足利義政に仕えた祐乗(ゆうじょう)が始祖で、江戸時代前期の顕乗(けんじょう)が中興の祖と言われています。

久坂玄瑞や吉田稔麿等長州藩士の寓居跡・法雲寺

京都市中京区の河原町二条に法雲寺というお寺が建っています。 法雲寺の境内には、縁切りで有名な菊野大明神が祀られており、それほど有名なお寺ではありませんが、隠れた人気スポットとなっています。 さて、この法雲寺の入り口に平成27年(2015年)7月に石碑が建立されました。 その石碑は、「久坂玄瑞 吉田稔麿 等寓居跡」を示すものです。

護王神社の塀に架かる和気清麻呂の物語

京都市上京区の護王神社は、和気清麻呂(わけのきよまろ)を祭神として祀っている神社です。 護王神社には、何度も参拝しているのですが、最近になって気付いたものがありました。 それは、東の塀に20枚以上の絵が架かっていることです。 この絵は、和気清麻呂の物語を描いたもので、平成10年(1998年)10月に和気清麻呂公命(わけのきよまろこうのみこと)千二百年祭記念として塀に掲げられたもののようです。