西本願寺にある広隆寺の梵鐘

京都市下京区に建つ西本願寺は、浄土真宗本願寺派の本山ということもあり、境内は広く、様々な文化財も保存しています。

それら文化財の中には、かつて、右京区の太秦(うずまさ)に建つ広隆寺で使われていた梵鐘もあり、重要文化財に指定されています。

安穏殿に置かれていた梵鐘

西本願寺には、京都駅から西に約10分歩くと到着します。

広々した境内は、西側に御影堂(ごえいどう)と阿弥陀堂の2つの大きなお堂が南北に建つも、中央は地面いっぱいに砂利が敷き詰められているだけで何もなく、見上げれば空の広大さを感じられます。

境内

境内

その境内の北側に安穏殿(あんのんでん)と呼ばれる建物が建っています。

安穏殿は、本願寺ブックセンターになっていて、参拝者は本や記念品を購入できます。

安穏殿

安穏殿

広隆寺で使われていた梵鐘は、この安穏殿の入り口付近に置かれていたのですが、現在は見当たりません。

下の写真は平成22年(2010年)に撮影した安穏殿。

2010年の安穏殿

2010年の安穏殿

入り口の左側に小さく梵鐘が写っているのがわかるでしょうか。

拡大するとこんな感じ。

広隆寺の梵鐘

広隆寺の梵鐘

高さ158.2cm、口径106.4cmあり、小学生だと、すっぽり中に収まってしまうほどの大きさ。

龍頭(りゅうず)は木彫り。

この梵鐘、平成30年(2018年)9月までは安穏殿の前に置かれていることを確認しているのですが、その後、姿を消してしまいました。

2018年の安穏殿

2018年の安穏殿

梵鐘の銘文は信西作

以前に紹介した書籍『京都 知られざる歴史探検』の下巻によると、室町時代末期の『広隆寺由来記』に梵鐘の銘文は信西(しんぜい)の作、梵字は鳥羽天皇の皇子の覚性入道親王の筆と記されているそうです。

信西は、平安時代末期の保元元年(1156年)に平清盛と手を組んで保元の乱で勝利し、以後、政界を牛耳りましたが、平治元年(1159年)の藤原信頼のクーデターを発端にする平治の乱で自害しています。

広隆寺は、保元の乱より前の久安6年(1150年)に火災で伽藍を失いましたが、平治の乱後の永万元年(1165年)に再建されています。

信西は、この世を去る前、新しく鋳造される広隆寺の梵鐘のために銘文を作っていたんですね。

同書によると、信西は漢学の権威であり、息子の寛敏(かんびん)が広隆寺別当に就任していた関係で梵鐘の銘を揮毫(きごう)したのではないかと推測しています。

その梵鐘が、西本願寺にあるのは、天文16年(1547年)に大坂本願寺(石山本願寺)が、広隆寺から購入したから。

大坂本願寺は、織田信長と約10年戦い続けた末、正親町天皇(おおぎまちてんのう)の仲介で和睦し、和歌山、貝塚、天満と移転した後、天正19年(1591年)に豊臣秀吉が現在地を寄進したことで京都に戻っています。

その後、徳川家康により西と東に分けられたのですが、広隆寺の梵鐘は大坂本願寺時代からずっと西本願寺が所有し続け、平成8年に2代目の梵鐘になるまで、飛雲閣の鐘楼に吊られていました。

安穏殿の前に置かれるようになったのは、お役御免となった後のこと。

梵鐘はいずこへ行ってしまったのかと不思議に思っていましたが、どうやら平成30年10月24日に境内東側の阿弥陀堂門と御影堂門の間にあるお茶所(総合案内書)の南側に移動されたようです。

お茶所の南側はトイレのはず。

そこに梵鐘を見たことないぞと思ったのですが、これまで外で展示していたのを劣化を防ぐため屋内に展示することになったと模様。

ということで、梵鐘はお茶所の中に安置されており、「お寺の鐘しらべ」さんの以下の記事に写真が掲載されています。

真夏の暑い日にお茶所に入って冷たい水を飲んだことはあったのですが、梵鐘に全然気づきませんでしたね。

また、お参りした時に見ておきましょう。

なお、西本願寺の詳細については以下のページを参考にしてみてください。

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