夏の暑さを乗り切るために冷房は欠かせない存在になっていますが、それがなかった時代は、うちわや扇子でパタパタと仰ぎ、体に涼風を送るのが当たり前でした。
現代でも、夏場にうちわや扇子を仰ぎながら歩いている人をよく見かけます。
特に京都は、扇子を扱っているお店がいくつもあるためか、他の地域より扇子の割合が高いように感じられます。
その扇子、かつては五条大橋のたもとで、たくさん作られていたという。
重たそうな扇塚
京阪電車の清水五条駅を出ると、目の前には鴨川に架かる五条大橋。

五条大橋
その五条大橋を西に渡った右手には、扇子をかたどった石造の扇塚が置かれています。

扇塚
縦に折り目が付き、扇子を開いた姿になっていますが、一部を切り取ったような形。
扇子全体を石で表現すると、巨大な石碑になったはず。
そういうことで、扇子の一部分だけを切り取って扇塚としたのかも。
それでも、相当重たそうな石に見える。
近くには、昭和35年(1960年)3月15日に当時の京都市長であった高山義三による説明が書かれた石板が生垣に埋まるように置かれています。
同じ内容のものが、立札になっていたので、こちらを読むことに。
扇は平安時代初期にこの地で初めて作られたとのこと。
五条大橋のたもとは、時宗の御影堂の遺跡であり、一ノ谷の戦いで討死した平敦盛の妻が祐寛上人によって得度し蓮華院尼と称し、寺僧とともに扇を作ったと伝えられています。
この由緒により、扇工がこの地に集まり永く扇の名産地として海外にまでも広く喧伝されるにいたったということです。
ちなみに当地にあった御影堂は、新善光寺の通称。
当寺で作られた扇は御影堂扇として有名になっていきました。
貴族の象徴だった扇子
現存最古の扇子は、平城京二条大路出土のものと京都市南区の東寺に建つ食堂(じきどう)の旧本尊千手観音立像の腕内に奉納されていた檜扇(ひおうぎ)だそうです。

東寺の食堂
檜扇は、ヒノキの薄板をひもで結んだ扇子のこと。
宮中で使われていたもので、奈良時代から平安時代初期に発明されたと考えられています。
檜扇だけでなく扇子自体が、仰いで涼むより、貴族の象徴として儀礼的に使われてきた歴史を持っています。
京扇子が優美な見た目をしているのは、単に涼をとるだけの道具ではなく、王朝以来の伝統がそこに息づいているからでしょう。
茶道や華道、能や舞など、日本の伝統芸能においても、京扇子は必需品。
金箔や銀箔が貼られたものもあれば、漆や蒔絵が施されたものもあり、襖絵や障壁画を持ち歩ける形にしたのではないかと思えるような見た目。
繊細な京扇子を乱暴に扱って、すぐに壊してしまった苦い思い出がよみがえる。
京都のお寺や神社では、伝統芸能が奉納されることがありますが、そのとき、必ずといって良いほど扇子を目にします。

扇子を持って舞う白拍子
日本の伝統芸能では、白拍子のように扇を手に持って舞うこともあれば、ただ腰に差している場合もあります。
いずれにしても、扇子は伝統芸能において、なくてはならない小道具と言えそうです。
誓願寺にもある扇塚
扇塚と言えば、京都市中京区の新京極通に面して建つ誓願寺の境内にも置かれています。

誓願寺の扇塚
宝篋印塔の真ん中の石に扇が描かれ、その下の石に扇塚と刻まれています。
当寺は、落語の祖とされる安楽庵策伝が住職を務めたお寺。
落語でも扇子は使いますから、境内に扇塚が置かれていることは不思議ではありません。
誓願寺では、謡曲「誓願寺」で和泉式部が歌舞の菩薩として現れることから、芸道上達を祈願して扇子を奉納する風習があり、これが扇塚に扇子を納めることにつながったといわれています。
このように五条大橋たもとの扇塚が顕彰碑であるのに対し、誓願寺の扇塚は信仰の対象である点で異なっています。
現在も、誓願寺の本堂の壁には、参拝者が奉納した扇子が並んでいますよ。
今日の五条通は道幅が広く、自動車が途切れることなく走っています。
道路沿いには、会社のビル、ホテル、飲食店が建ち並び、和風の建物はあまり見られません。
そんな五条大橋たもとの景色を見て、ここが京扇子のメッカだったと想像できる人は、まずいない。
往時を偲ぶのは、扇塚に気づいた人だけでしょうね。