まんじゅうが由来の饅頭屋町

京都市中京区に饅頭屋町(まんじゅうやちょう)という町名があります。

北は三条通、南は六角通まで、三条通の西側一帯と東側の一部が饅頭屋町で、その名から想像できるようにまんじゅうが由来。

実は、京都の饅頭屋町は、東京にあるお菓子の老舗「塩瀬総本家」とも深い関係があります。

中国からまんじゅうを伝えた林浄因

地下鉄の烏丸御池駅から三条通を南に3分ほど歩くと、そこは饅頭屋町。

ホテルや商業ビルが建ち並び、まんじゅうとは無関係に思える街並み。

どちらかというと、和菓子よりカフェの方が似合う感じで、烏丸通沿いで営業するスターバックスが街に溶け込む。

中国から日本にまんじゅうを伝えたのは、林浄因(りんじょういん)という人。

暦応4年(1341年)に建仁寺の僧である龍山徳見(りゅうざんとくけん)が、中国での修行を終え日本に戻る際に伴われてきました。

来日した林浄因は、奈良でまんじゅう作りを開始。

彼のまんじゅうは、南朝の後村上天皇に献上され、その美味なることを褒められ宮女を賜ったという。

しかし、林浄因は、延文4年(1359年)に龍山徳見がこの世を去ると、その寂しさから妻子を残し中国に帰ってしまいました。

これで、日本のまんじゅう作りは終わったかに思えましたが、さにあらず。

林浄因のまんじゅう製法は、しっかり、子孫に受け継がれていたのです。

その後、分家した一派が京都に上り、まんじゅう屋を開業したところ、大いに繁盛。

以前に紹介した『京都「地理・地名・地図」の謎』によると、六角堂の門前町でよく賑わい、店も大いに発展し、この地がまんじゅう屋の発祥の地ということで「饅頭屋町」と呼ばれるようになったそうです。

饅頭屋町から外れている六角堂

六角堂は、三条通から六角通を東に入ったところに建っていますが、ぎりぎり饅頭屋町から外れています。

とは言え、この辺りで、林浄因の子孫が営んだまんじゅう屋が繁盛していたことは確かでしょう。

六角通沿いには、六角堂の鐘楼が建ち、昔ながらの景観が一部残っています。

六角通沿いに建つ鐘楼

六角通沿いに建つ鐘楼

鐘楼の反対側には、六角堂の山門が開く。

六角通に面する山門

六角通に面する山門

その後、林家は、応仁の乱(1467年)で京都から三河国設楽郡塩瀬に移住し、代々、塩瀬(しおせ)を名乗るようになります。

乱の原因を作った足利義政は、直筆の「日本第一番本饅頭所林氏塩瀬」の看板を与えたそうで、彼もまた塩瀬のまんじゅうのファンだったのかもしれません。

応仁の乱が沈静化すると、再び、塩瀬は京都に戻ってきました。

以降、塩瀬は、時の権力者や朝廷からも贔屓にされ、茶道をたしなんだ林宗味(りんそうみ)は、豊臣秀吉からも寵遇されたと伝えられています。

江戸時代になると、塩瀬は分家して江戸でも店を構えることに。

一方、京都の塩瀬は、林浄因から19代目の塩瀬九郎右衛門が、寛政10年(1798年)に亡くなって廃絶。

奈良の店も、江戸時代の始めにまんじゅう屋をやめていることから、江戸の塩瀬だけが残り、現在にいたっています。

六角堂の境内に立ち、本堂をぐるっと囲むビルを見上げていると、時代の移り変わりを実感します。

ビルに囲まれた境内

ビルに囲まれた境内

ただ、饅頭屋町から塩瀬のまんじゅうは消えたものの、六角堂の寺務所では、六角形のへそ石餅が販売されており、門前が和菓子で栄えたことの名残をとどめています。

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