京都市内にある城で最も有名なのは、中京区にある二条城。
慶長7年(1602年)に徳川家康が将軍の邸宅として築城したものですが、二条城と呼ばれる城は、豊臣秀吉も築いていますし、その前には織田信長も造営しています。
しかし、現存する二条城は徳川家康が築いたものだけ。
織田信長の二条城の跡地には、それを示す石碑がただ立つのみです。
本圀寺の変後に足利義昭の邸宅として築かれる
織田信長の二条城は、上京区の京都御苑の西側にありました。
地下鉄の丸太町駅から烏丸通を北に約3分歩き、下立売通を西に入るとすぐ平安女学院が現れます。
その前の歩道に旧二條城跡の石碑が立っています。

下立売通の歩道
説明書によると、永禄12年(1569年)に室町幕府第15代将軍・足利義昭の将軍座所(居城)として、この石碑を中心に約390メートル四方の敷地に築かれたのが旧二条城とのこと。
当地は、13代将軍の義輝の邸宅があった場所。
しかし、義輝は、永禄8年に三好三人衆によって殺害され、その邸宅も焼失しています。
三好三人衆は、足利義昭の命も狙う。
永禄12年正月に義昭が宿泊する本圀寺を襲撃。
この時、織田信長は、岐阜からわずか3日で義昭のもとに馳せ参じ、無事を確認して大いに喜んだという。
この事件は、本圀寺の変と呼ばれていますが、信長は事件後の2月に、義輝の邸宅跡に義昭のため要害堅固な将軍御所の造営に取り掛かります。
大工奉行は村井貞勝と島田秀満。
ポルトガル人宣教師のルイス・フロイスの記録等によると、御殿には金銀がちりばめられ、庭前には泉水、遣水、築山を整備したということですから、将軍御所は貴人が住むにふさわしい豪華なものであったことがうかがわれます。
また、信長自身も音頭をとって細川氏綱邸にあった藤戸石(ふじといし)という名石を庭に据え付けています。
銀閣寺にあった九山八海(くさんはっかい)という名石も運び込まれ、その他、洛中洛外から名石、名木を取り寄せ、将軍の邸宅周囲には幕臣衆の屋敷も建ち並んでいたと伝えられています。
ルイス・フロイスの目からは、これだけの工事は4年から5年はかかると見られていましたが、信長はわずか70日間で完成させたというのですから、彼の統率力や財力が並外れたものだったことがわかります。
足利義昭追放後は誠仁親王の御所に
豪華絢爛たる二条城でしたが、信長と義昭の関係が険悪となり、天正元年(1573年)に信長によって義昭が追放されると、同4年に解体されることになりました。
その後、当地はどうなったのか。
信長は、天正4年に二条衣棚にあった二条家の邸宅を譲り受けて改築、同7年に正親町天皇(おおぎまちてんのう)の皇太子であった誠仁親王(さねひとしんのう)に献上し、その御所になりました。
信長が御所を献上した目的は、正親町天皇との確執から天皇の退位を迫り、誠仁親王を次期天皇とするためだったとされています。
しかし、誠仁親王は即位することなく早世し、信長の野望は叶わず。
その時、すでに信長も本能寺の変で世を去っており、二条城も、同日に嫡男の信忠がたてこもり明智軍と戦ったため炎上しています。
旧二條城跡の石碑は、信長の全盛期を語るにはあまりに質素で小さい。

旧二條城跡の石碑
現在、旧二条城の跡地にはキリスト教教育を行っている平安女学院の立派な学舎が建ち、ルイス・フロイスとの縁を感じさせますが、建設の経緯は知りません。
石碑の後ろには、平安女学院が設置した説明書があり通行人の目に触れやすくなっていますが、仮に当地に民家が並んでいたら、今よりも目立っていなかったのでは。
室町幕府の史跡は質素なものが多いですが、最後の将軍の御所跡も織田信長が関わったとはいえ、例外ではないようです。